写真:桑名城の江戸時代の石垣
三重県の桑名市は、関ケ原合戦後、本多忠勝が徳川家康から与えられた地である。そしてこの地では、「天下無双」として知られた忠勝の、別の顔を見ることができるという。しかも桑名は、家康と忠勝の孫同士が結ばれた場所でもあるそうだ。「きっと、面白い歴史に出会えるはず!」。そんな期待を胸に、現地へ向かった。
※本稿は『歴史街道』2023年11月号の総力特集「新・関ケ原」から一部抜粋・編集したものです
写真:本多忠勝像
「これは、天下無双の武将と呼ぶにふさわしい......」
桑名駅から徒歩17分ほど東に進むと、本多忠勝像の雄姿が目に飛び込んできた。写真で見ていたよりも、どっしりとたくましい。その後方にそびえる愛槍・蜻蛉切も相まって、勇将としての威風がただよっている。
だが、ここ桑名市では、忠勝の武将以外の顔も見られるという。
それを探りに、まずは忠勝が桑名入封後に築城を開始した、桑名城跡へと向かう。
城跡は、忠勝像のすぐ南側。現在は、九華公園として整備されている。公園内を進むと、特に目を引かれるのが水堀だ。幅が広く、また歩いているうちに、城跡内に占める水堀の割合が高いことがわかる。この水堀を越えて城を落とすのは、容易ではなさそうだ。
写真:九華公園の水堀
そんなことを思いつつ、公園内の北東角にある天守台跡にいきつく。かつてこの場所には、附櫓を持つ四層六階の天守が聳えていたそうだ。天守は元禄14年(1701)、火災で焼失したが、スマホアプリ「桑名城探訪」をつかうと、3DCGで再現された桑名城や城下町をVRで見られるという。
アプリをダウンロードして、スマホを天守方面に向けると、再現された天守が映し出されて、ありし日の桑名城をイメージしやすい。本多忠勝がこの城で暮らしていたと思うと、気分が高まってくる。
写真:3DCGで再現された名古屋城
城を出て西側の三之丸西側には、江戸時代の石垣が残されている。そちらに向かうと、荒々しく積み上げた、戦国の気風を感じさせるような石垣が見えてくる。
南北に500メートルほどつづく石垣を見ていると、より一層、往時の桑名城を身近に感じられるだろう。
写真:桑名市博物館に展示されている桑名城の復元模型
では、本多忠勝は、この城と城下町をどのようにして整備していったのだろうか。九華公園から徒歩7分ほどの距離にある桑名市博物館で、館長の杉本竜さんに話をうかがった。
杉本さんによると、忠勝の町づくりを語るうえでまず欠かせないのが、「町屋川(員弁川)」の付け替えだそうだ。
「桑名城を中心とする桑名の城下町は、もともと町屋川の河口にあたり、水害の起きやすい土地柄でした。そこを忠勝は、町屋川の流れを南に付け替えて、伊勢湾にそそぐようにしました。
あわせて、それまでの中世的な町並みをほとんど更地にして、近世的な城下町を一からつくっていきます。これを『慶長の町割』といいますが、以降、桑名は城下町、港町、漁師町、宿場町と、4つの顔を持つ町として発展していくこととなりました。
忠勝は単なる武辺者ではなく、都市計画もできる人材であり、その点において、家康を支えるにふさわしい人物といえるでしょう」
しかしなぜ、忠勝は川の付け替えまでして、現在の地に城を築いたのだろう。桑名市役所市長公室の石神教親さんはこう語る。
「諸説ありますが、そもそも、築城当時はまだ大坂に豊臣秀頼が健在なため、西への抑えとなる防衛拠点が必要でした。それこそが桑名城です。
当時、桑名と尾張の熱田の間は、東海道で唯一の海路で、船で渡る必要がありました。桑名城があれば、徳川方の軍勢が籠城するだけでなく、将軍家が城に籠もっていた場合、万一の際には船で熱田方面に逃げることもできるのです」
それほどの重要な場所だから、家康も信頼できる忠勝を置いたに違いない。
杉本さんと石神さんに話をうかがった後で博物館内を鑑賞していると、桑名城の立体復元模型も展示されていた。やはり水堀が際立って見え、自分が攻め手だったら大変だろうなあ、と実感する。
博物館では10月28日から11月26日まで企画展「武門の遺産─徳川家を支えた忍・桑名・白河─」が開催され、桑名城の絵図なども展示されるそうだ。
更新:11月21日 00:05