慶長5年(1600)、関ケ原とは離れた丹後の地で、"もうひとつの関ケ原"ともいえる籠城戦が繰り広げられた。城方はわずか500。対する攻め手は1万5000。圧倒的に不利な状況でありながら、50日以上にわたって城を守り続け、東軍の勝利に貢献したのが田辺城だ。
はたして田辺籠城戦はどのような戦いだったのか。田辺城があった舞鶴を、編集部が訪ねた。
田辺城は、天正8年(1580)に織田信長より丹後国を与えられた細川幽斎が、子の忠興とともに築城した城だ。現在の京都府舞鶴市に位置し、舞鶴の地名は、田辺城が別名「舞鶴城」と呼ばれたことに由来する。
この田辺城、美濃の関ケ原とは離れた場所に位置するが、東軍の勝利に大きく貢献した城として知られている。
慶長5年(1600)7月、徳川家康が上杉征伐に赴いている隙をついて、石田三成が打倒家康の兵を挙げた。その時いち早く軍勢を差し向けたのが、丹後の田辺城だった。
当主の忠興は、家康に助勢するため、主だった兵を率いて東国に向かっていた。残っているのは、すでに隠居していた幽斎と、わずかな城兵たち。かれらは町民を含め、500名ほどで城に籠った。
7月20日、福知山城主の小野木重勝を大将とする1万5000の軍勢が押し寄せるが、幽斎らは50日以上もの間籠城を続けた。その結果、関ケ原の本戦に向かうはずの軍勢を足止めすることとなったのである。
はたして田辺城はどんな城なのだろうか。そして、田辺籠城戦はどのように展開されたのか。まだ夏の日差しが残るなか、舞鶴を訪ねてみた。
彰古館
JR舞鶴線の西舞鶴駅から徒歩7分ほど、「舞鶴公園」のなかに田辺城跡はある。公園内に足を進めると、北側に石垣が長く続いているのが目に入ってくる。
「これらは田辺城の本丸の石垣跡です。周囲を堀で囲んだ平城で、上のほうの石垣は江戸時代だと思われますが、下のほうは幽斎公の時代のものだと考えられています」と田辺城資料館の野村充彦さんが解説してくれた。
さらに石垣の遺構を見ることができるのが天守台だ。
「平成2、3年度の調査で確認されたものです。本丸と地続きではなく、天守台の周囲にも水堀があったと見られています」とのこと。
本丸の石垣の上には彰古館が建っており、公園の入口に設けられた城門の2階には、田辺城資料館がある。
彰古館では幽斎の事蹟をタペストリーで紹介。資料館には、歴代藩主の年表や、田辺城の掘割を復元した模型などが展示されており、二館あわせて田辺城や舞鶴の歴史を学べるようになっている。
舞鶴の人にとって、細川幽斎はどんな存在なのだろうか。「田辺城ガイドの会」の藤田秋善さんに訊いてみた。
「細川さんが入部するまでは、舞鶴は何もないところでした。お城は川と海に囲まれた湿地帯で、幽斎公は川の流れを変えて町を形成したといわれています。
城下町には、商人や職人などを連れてきて住まわせた。そうしてこの町が生まれたのです。細川氏が治めていたのは20年ほどですが、舞鶴の人間にとって、幽斎公への崇敬の念は強いんですよ」とのこと。
田辺籠城戦でも、幽斎を慕う人が攻城側にいたため、積極的な攻撃は行なわれなかったという。
「幽斎の妻の麝香(じゃこう)さんは、攻防の様子を書き記し、口紅と白粉を使って絵地図に残したといわれています。『鉄砲の音はするが、空砲だった』などと記され、空砲を撃つ西軍方の幟の紋章を書き留めるなどしました。
なかでも攻城側にいた谷衛友(たにもりとも)は、幽斎とは和歌の師弟関係にあったため、『谷の空鉄砲』といわれています。麝香さんが記録を残したおかげで、合戦後には徳川家からお咎めを免れただけでなく、加増された者もいるんですよ」
更新:12月13日 00:05