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なぜ田辺籠城戦は手強かった? 京都・舞鶴に受け継がれる「幽斎への崇敬の念」

2023年10月16日 公開

歴史街道編集部

 

戦の様子を伝える籠城図

麝香が描いた絵地図は「田辺籠城図」として伝わっている。舞鶴ふるさと発見館(舞鶴市郷土資料館)で実物を見せていただいた。

こちらも舞鶴の歴史を学べる資料館で、古代以来の歴史を展示している。

「『田辺籠城図』は10点ほど残っていて、田辺に残る『田辺(舞鶴)系』と、熊本に残る『熊本系』とがあります。それぞれ海岸線の描き方など少しずつ違いがあって、地図の周囲にびっしりと顚末が書かれているものもあります。

関ケ原合戦後、細川氏は豊前・豊後へ転封となりますが、12万石から40万石への大幅加増です。その理由には、忠興が本戦で石田三成隊と直接戦って壊滅に追い込んだというのもありますが、田辺城で1万5000もの軍勢を引きつけたことに対する、幽斎への感謝の気持ちがあったんでしょうね」と学芸員の小室智子さんが説明してくれた。

絵図には「桂林寺」「瑞光寺」というお寺の名前が記されている。ふたつのお寺も、町民らとともに籠城して戦ったらしいのだ。

 

大手門と搦手門を守った2つの寺

舞鶴公園にある古今伝授の松
舞鶴公園にある古今伝授の松

「『自分の町のお殿様が大変な目に遭っているから、放っておけない』っていう思いだったんじゃないですかね」と話してくれたのは、桂林寺の住職・能登春夫(しゅんゆう)さんだ。

慶長5年当時の住職・大渓(たいけい)和尚は、14人の弟子たちを連れて籠城に参加し、大手門の防備を担った。戦後、その功績に対し、梵鐘と仏涅槃図が細川氏から寄進されたのだそう。

梵鐘は鐘楼門に吊り下げられており、大みそかには一般の人も除夜の鐘を撞きにやってくる。仏涅槃図は毎年2月1日から15日の涅槃会に一般公開しているとのこと。

もうひとつ、絵図で搦手門の防備として記されているのが瑞光寺だ。

「当寺の開基は釋明誓(しゃくみょうせい)という人で、俗名を楠源吾といい、楠正成の後裔です。私は明誓から数えて15代目にあたります」と語るのは、住職の楠文範(ぶんはん)さん。

「寺の記録には、釋明誓の妻が『佐知』で、幽斎の『息女』と書いてあります。つまり娘ですね。私は妹と聞いているんですが、いずれにせよ、細川家とは姻戚関係を結んでいたことになります」

寺には籠城記の写しが残っていて、明誓上人と幽斎のやりとりが記されているそうだ。

「明誓が夜襲を仕掛けましょう、と提案するんです。幽斎公に『どう仕掛けるんだ』と尋ねられ、明誓が段取りを説明すると『さすが楠だな』と幽斎公が喜んだという記述があります。楠正成は日本におけるゲリラ戦の元祖のような人ですからね。

明誓にとって幽斎公は義理の兄か父親にあたる人ですから、助勢するために100人ほど、寺内町の町民を連れて籠城に参加したといわれています。

ただ、ほかの町民がどうして果敢に籠城に参加したのかはわからない。籠城戦では、海から攻めてきた軍勢を漁民が約40艘の船で蹴散らしたという話もあります。

いい大名が来てくれた、自分たちで守らなければ、という自治の意識が高い地域だったのかもしれないですね」

戦は膠着状態となり、朝廷が和議仲介に乗り出す。幽斎は古今和歌集の秘事口伝の伝承者であったため、奥義が途絶してしまうのを惜しんだのである。

ところが、幽斎は朝廷が勧める開城を拒み、勅使に古今伝授の秘伝書と和歌を託した。舞鶴公園にある「古今伝授の松」のもとで行なわれたと伝わる。現在の松は6代目とのこと。

幽斎は結局、勅命を受け入れ、9月12日に停戦が成立。50余日にわたる戦いがここで幕を閉じた。

幽斎は田辺を去り、丹波の亀山城へと移った。最終的には開城したが、町の人々はこの戦いに誇りをもち、今も語り継ごうとしていることを感じさせてくれる旅だった。

 

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