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茶屋四郎次郎、穴山梅雪、長谷川秀一、本多忠勝 ~「伊賀越え」で徳川家康の窮地を救った人々

和田裕弘(戦国史研究家)

写真:甘南備山展望台からの眺め
御斎峠展望台より伊賀盆地を望む

徳川家康の生涯において重大な局面だった「伊賀越え」。選択を誤れば 破滅の危機にあったこの状況で、最善の成果を挙げられたのは、徳川家臣だけでなく、 多くの人々の助力があってこそだった。ここでは、伊賀越えで重要な役割を果たした男たちを紹介しよう。

※本稿は『歴史街道』2023年7月号の特集1「徳川家康と本能寺の変」から一部抜粋・編集したものです。

和田裕弘(戦国史研究家)
昭和37年(1962)、奈良県生まれ。織豊期研究会会員。著書に『織田信長の家臣団─派閥と人間関係』『信長公記─戦国覇者の一級史料』『織田信忠─天下人の嫡男』『天正伊賀の乱』などがある。

 

徳川家康の三大危機の一つに数えられるのが、天正10年(1582)6月の「神君伊賀越え」である。

実は良質な史料が少なく、実態は不明である。同行した家臣の活躍は自家顕彰のために記されたものがあり、信用できないものが多い。家康に従っていた家臣の名前すらはっきりしない上に、帰国ルートも諸説あって確定していない。

扈従した家臣としては、酒井忠次と石川数正、および「家老衆」数人が同行していたことは『信長記』などで確認できるものの、そのほかの家臣は信頼できる史料では確認できない。ここでは、諸史料をもとに伊賀越えにまつわる人物を取り上げたい。
 

茶屋四郎次郎~家康の運命を変えた豪商

家臣ではないものの、伊賀越えで活躍したといわれる一人が茶屋四郎次郎である。諱は清延とも、情延とも伝わる。茶屋家は京都の豪商で、角倉家、後藤家と合わせ「京都三長者」として知られる。

先祖は小笠原源氏の末流として中嶋氏を名乗っていた。しかし清延の父・明延の時、将軍足利義輝が明延邸に時々立ち寄って茶を所望しており、ある時戯れに「茶屋」と名付けて以後、茶屋を家号とした。一説には、清延は桶狭間合戦の後、三河に下って家康に仕えていたともいう。

家康が上洛した時、京都での宿泊先は茶屋邸だったとも伝わる。堺滞在中に信長が上洛してくるという情報を入手した家康は、信長の指示を仰ぐべく、ともに堺に下向していた清延を先に上洛させた。

ところが6月2日早朝、本能寺の変が勃発し、これを知った清延は急いで堺へ向かった。家康もこの日上洛すべく、本多忠勝を先発させていたが、この両者が枚方辺りで遭遇した。

清延は急変を忠勝に伝え、ことの重大性を悟った忠勝は清延を伴って家康一行のもとへ向かい、飯盛山近辺で上洛途上の一行に出会い、変を告げる。

機密情報であるため、突発的な異変を警戒して下々には知らせず、重臣のみで事後のことを協議。当初、変のことを聞いた家康は動揺し、京の知恩院で追腹を切るとも、また本能寺で切腹するとも発言したというが、小人数で上洛するよりも、一旦帰国して弔い合戦をすることに決し、枚方から伊賀国を経て三河に帰国することに衆議一決した。

道中、変の急報が伝わり、山賊らが蜂起したが、清延が先導し、用意していた銀子を与えて土地の者に道案内させ、無事に帰国することに成功したという。伊賀越えを勧めたのは清延という説もある。

清延はこの時の功が評価され、徳川家の御用商人(呉服師)として重用されたという。

 

穴山梅雪~武田旧臣の死にまつわる様々な説

家康一行と同行していたのが、武田の旧臣・穴山信君(梅雪斎)。武田一族の穴山氏である。武田信玄の甥であり、正室は信玄の息女であった。つまり、武田勝頼とは従兄弟であり、義兄弟でもある。

このように勝頼とは二重の縁戚で結ばれており、武田氏の重鎮だったが、梅雪は武田氏の滅亡に際し、主家を裏切った。嫡男・勝千代と勝頼息女との婚姻が調わなかったことで勝頼との間に亀裂が入り、それが謀叛の直接的な要因となったともいわれる。

永禄後期の家康との同盟交渉で取次役を務め、家康とは早くから接触があった。天正10年の武田攻めに際し、家康を通じて信長に帰属し、甲府に人質となっていた正室と子供を雨夜に紛れて脱出させた。

梅雪の裏切りが、武田家中に与えた心理的影響は計り知れず、武田氏の呆気ない滅亡の一因をなした。梅雪は信長から旧領を安堵され、勝頼滅亡後の武田氏を相続したようである。

そのお礼言上として、家康とともに安土に参向し、信長から手厚くもてなされた。家康と行動を共にし、堺に下向していた時、本能寺の変が勃発。変を知ってから家康を疑い、家康一行とは少し離れて後ろを進んだという。

『三河物語』には、落ち武者狩りに遭って打ち殺されたが、家康に同行していれば、無事であったと評されている。梅雪一行は、通行した在郷の郷人が一揆を起こして討ち取られたといわれるが、梅雪が死に至った様相は諸説あってはっきりしない。

先行していた家康一行を案内した者の熨斗付の刀剣を、梅雪の従者が奪って殺害したため、近郷の者が梅雪まで打ち殺したとも、梅雪の身なりが美麗だったため、討ち取られたともいう。また、梅雪の従者も美麗な者が多く、そのため討ち取られたとも伝わる。『家忠日記』には、「腹切候」とあり、自害したように読めるが、伝聞であり、どこまで信用できるか心許ない。

死去した場所についても、草内(京田辺市)で討ち取られたとも、近江の瀬田の橋詰で落命したともいわれるが、信憑性の高い『信長記』では、宇治田原を経由して帰国しようとしたものの、一揆が蜂起して「生害」したとしている。

宣教師フロイスの記録によると、家康は従者も多く賄賂とする黄金を所持していたので帰国できたが、梅雪は出発が遅れた上に、兵の数も少なかったため略奪に遭い、財物すべてを奪われ、兵も殺害され、一旦は逃れたものの、結局は殺害されたという。

なお、異説として大和路を経由した梅雪が、長谷路で殺害されたと記している家譜もある。これと関連するように、遺骸は奈良県桜井市の光専寺に葬られたという説がある(上島秀友 『本能寺の変 神君伊賀越えの真相』)。

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