家康一行を道案内したのが、信長の側近・長谷川秀一である。信長の命で家康の世話役として堺にも同行していた。急変を知った家康は、上洛して追腹を切るという路線から帰国することに切り替えたが、これを勧めたのは秀一という説もある。
秀一自身は、信長から重恩を被っているので賊党の一人も斬り捨てずに切腹するのは無念であり、自分は京都へ向かうと言って上洛の途に就いた。一方、帰国することに決していた家康だったが、秀一のような若輩ですら上洛するのなら我も、とばかり追いかけた。これを見た秀一は、家康がそれほどの覚悟ならば、家康が帰国して復仇戦を遂げる時には先手に加わって討死するのが本望とし、家康に同行することに切り替えたという。
家康一行は、不案内な土地であり、帰国の困難を憂慮したが、秀一は心配無用とし、帰路については請け合った。帰国ルートにあたる地侍らには秀一が信長への帰参を取り次いだ者が多く、河内、山城、近江、伊賀路などは障害なく通過できるとし、宇治田原の山口氏に使者を派遣し、歓待された。
信楽では郷民に妨害を受けたものの、信長への出仕を取次ぐなど旧知の多羅尾光俊へ使者を派遣して、渡りをつけた。光俊は家康一行を迎えるべく、人質の意味も込めて息子の久八郎を派遣し、一行の警戒心を解き、到着時には門外まで迎えに出て、一行を世話した。秀一の道案内で、家康一行は無事に本国まで帰国することができたという。
『川角太閤記』は、秀一は浜松まで同行したと記しているが、『信長記』は桑名から舟で熱田へ着いたと記しているので、秀一は熱田で家康一行と別れたものと思われる。
伊賀越えで活躍した家康の直臣の一人が本多忠勝。いわずと知れた歴戦の勇士である。
一般的には家康に追腹することを諫止したのは忠勝といわれる。宿老の酒井忠次、石川数正も同行していたが、耄碌して思案が浮かばず、家康が京都で追腹することに同心していたことを、若輩の忠勝が覆したという。
追腹を切るのは葉侍のすることであり、家康くらいの人物なら、本国に帰国して弔い合戦をしてこそ御本意である、と説いた。自害することをためらうのは臆病ではないとし、家康が切腹するなら、忠勝は一番に腹を切る、と覚悟を示して説得した。
草内渡では、渡河したあと、舟底を鎗の石突きで破壊し、追撃されないようにした。また、多羅尾氏が明智光秀と通じているという疑惑もあったが、忠勝の進言で家康一行は多羅尾を信じて屋敷に赴くことに決したという。
伊賀越えでは忠勝らが守護して無事、帰国することができた。家康は忠勝が危急を救ってくれたことを賞し、「十死の中に一生を得候」と感謝したという。
他方、酒井家の家譜には、小人数で弔い合戦をしようとする家康を引き留めたのは忠次とし、伊賀路を経て帰国し、大軍を催しての弔い合戦を勧めたとしている。
更新:11月23日 00:05