写真:甘南備山展望台からの眺め
徳川家康と穴山梅雪が運命を分けた地、家康一行が立ち寄った城跡や寺……。「お茶の京都」と称される京都山城地域の京田辺市・井手町・城陽市・精華町・宇治田原町には、伊賀越えにまつわる伝承が数多く残されているという。いったい、どんな秘話に触れられるのか──。胸を弾ませ、編集部が現地を訪ねた。
これは、絶景だ!
京田辺市の甘南備山展望台からの眺望は、素晴らしいものだった。なぜそこに足を運んだかというと、本能寺の変が関係している。
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が起きた時に堺にいた徳川家康は、明智光秀の軍勢を避けて、山城南部、近江の甲賀、伊賀、伊勢へと抜け、6月4日に、無事に本拠の三河に帰還したという。
世にいう「伊賀越え」だが、その道程や様相については諸説あり、「お茶の京都」と称される京都山城地域にも数多くの伝承が残されているそうだ。そんな地域をめぐろうと、まずは見晴らしのいい甘南備山展望台に向かったのだ。
展望台は、近鉄・新田辺駅から徒歩1時間ほど。麓の駐車場に車を停めてから登ることもできる。展望台から東方を望むと山々が連なって美しいが、家康一行はどうやって進んだのだろうか。
6月3日、家康一行は草内の渡しに至ったという。その地は木津川の渡し場で、河内・山城・大和を結ぶ交通の要衝でもあった。
昭和39年(1964)に山城大橋が架けられるまでは渡し船が往き来しており、草内木津川運動公園のサイクリングロード横に、草内の渡し場跡の碑が立っている。
新田辺駅からは徒歩25分ほど、車では10分ほどだ。この地に立って滔々と流れる木津川を眺めていると、一行が苦労して川を渡る様が浮かぶようだ。
写真:木津川の畔に立つ草時の渡し場跡の碑
家康主従はこの川を無事に渡れたものの、悲劇に見舞われた武将がいる。武田家の旧臣・穴山梅雪だ。理由は定かでないものの、家康と途中で別れた梅雪は、木津川河畔で一揆勢に囲まれて討たれたとも、自害したともされる。
その亡骸は地元の人々によって葬られ、現在は飯岡共同墓地内に穴山梅雪の墓が立っている。草内の渡し場跡から墓までは歩いて約25分、車で約5分だ。
一歩間違えば、家康も同じ運命を辿ったかもしれない──。そう思うと、伊賀越えがいかに苦難の道だったか偲ばれた。
写真:穴山梅雪の墓
さて、木津川を渡った家康一行だが、そこで待ち受けていたのが、新主膳正と市野辺出羽守だった。
彼らは、宇治田原の山口城主・山口甚介秀康の重臣で、一行を城に迎えるために、案内に来たのだ。
案内を得た一行は、現在の井手町の田原道を通ったという。井手町ふるさとガイドボランティアをつとめる岩田剛さんにうかがうと、伊賀越えの際に井手町の人も手伝い、御礼に名字と家紋を与えられた旧家があるそうだ。
今回、特別にその家紋が入ったお盆を見せていただいた。家紋は七本源氏車紋といい、岩田さんは「これは佐藤氏や榊原氏が用いた紋であり、立派な紋が与えられたことを考えると、大きな仕事をしたのではないでしょうか」と語る。
では、家康が進んだ田原道とはどんな道なのか。その一端を体感するために、北口公園から東部区公民館に至る道を歩いてみた。北口公園からゆるやかな上り坂となり、徐々に標高が上がっていくのがわかる。家康は歩きながら、その後も多難が待ち受けていると予期したのではないだろうか。
田原道へは、JR・山城多賀駅から歩いて5分強だ。ちなみに、田原道の近くに谷川ホタル公園があり、6月頃、多くのホタルが飛び交うそうだ。
写真:田原道
更新:11月21日 00:05