さて、最後は宇治田原町のゆかりの地へと向かう。
6月3日午前、家康一行は山口甚介秀康の山口城へと入ったという。
山口城跡は、城陽市の西生寺からはバスで25分ほど、車では10分ほどでつく。城跡は現在、茶畑になっており、案内をしてくれた宇治田原の歴史を語る会代表の茨木輝樹さんによると、城跡の東隣にある極楽寺の山門は、かつての山口城の裏門だそうだ。
写真:山口城跡
この城で軽い食事をとった一行は、松峠を経て遍照院へと至った。松峠は徒歩でしか通れないため、バスの場合は湯屋谷バス停で降り、車の場合は宗円交遊庵やんたんに停めてから歩くといいだろう。
ちなみに宗円とは、日本緑茶の祖・永谷宗円(1681〜1778)のことで、この地の出身だ。茨木さんによると、宗円の先祖も伊賀越えで護衛を務めたという。
宗円交遊庵から東へ向かうと、松峠の入口ともいえる大福谷につく。そこから先は鬱蒼と木が茂り、歩いていると、自分も伊賀越えの一員となったかのような思いがしてくる。
途中「信楽街道 家康伊賀越えの道」と案内板があり、その周辺が松峠だ。茨木さんが「この案内板の左の道は東海道へ、右は信楽街道へと至ります。家康は右の信楽街道を進んで伊賀越えに成功しました。左の東海道は人通りが多いので、そちらを選んでいたらどうなったことか……。ここは、重要な分岐点だったといえるでしょう」と教えてくれた。
写真:松峠
松峠を越えると遍照院へと至り、一行はここに立ち寄ったとされる。境内には樹齢四百年以上の梅の古木と、「家康公腰掛けの石」があり、歴史を感じさせる。
先代ご住職の杉山浩義さんは、「村の人々が助けて、家康公が無事に三河に帰れたのは、この地の誇りといえるのではないでしょうか」と語る。
確かに、道中で誰かが一行の行く手を阻もうとすれば、家康の運命は変わっていたかもしれない。伊賀越えの成功は、道中の人々の協力を抜きに語ることはできないだろう。
ともあれ、伊賀越えについては諸説あり、いまも全容は解明されていない。だからこそ、実際に現地を歩いてみて、自分なりの「伊賀越え像」を考えてみてはいかがだろうか。
更新:11月22日 00:05