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家康の運命を別けた街道とは? 京都に残る「神君伊賀越え」伝説

2023年09月20日 公開
2023年10月04日 更新

歴史街道編集部

 

家康を出迎えた人々の地――城陽市

家康一行は、田原道の次は現在の城陽市の白坂へと進んだという。

先ほど登場した市野辺出羽守の所領は白坂周辺の市野辺村(現在の城陽市市辺)で、人夫60から70人を連れていたとされる。

市辺には、伊賀越え当時から存在するお寺がある。天文13年(1544)ごろに創建された西生寺だ。谷川ホタル公園から徒歩で20分ほど、車で5分ほど。JR・山城青谷駅からは徒歩約15分だ。

境内には、天正12年(1584)に建立された碑がある。南無阿弥陀仏と彫られ、90人の法名も記されている。ご住職によると、「ご先祖様が伊賀越えを手伝った」という話が伝わっている檀家もあるそうだ。

寺から北へ5分ほど歩くと、市辺天満神社が鎮座している。この地の産土神で、創祀年代および由緒沿革はあきらかでない。だが、緑豊かな境内は古社の趣があり、目を閉じると、伊賀越えを手伝った人々の姿が思い浮かぶようだ。

なお、市辺天満神社からさらに北へ15分ほど歩くと、梅の名所として知られる青谷梅林もある。梅の季節に訪れた人は、そちらにも足を延ばすといいだろう。

写真:西生寺
写真:西生寺

写真:市辺天満神社
写真:市辺天満神社

 

司馬遼太郎作品に描かれた地――精華町

草内の渡し、田原道、白坂と進んだ家康一行は、次は宇治田原へと向かったとされる。

だが、それとは別のルートを辿ったとする説もある。その一つが、草内ではなく、精華町の山田地区を経由したとするものだ。

『徳川実紀』には「尊延寺より山城の相楽山田村着く」とあり、司馬遼太郎の『覇王の家』も、山田説をもとに次のように描いている。

「気づいたときは山城国相楽郡に入っていた。この地方の山田荘という字に入って人家の灯を見た時は、深夜であった」

では、家康は山田のどこを通ったのか。それは、山城から伊賀へと至る大坂道だとする説がある。

近鉄・山田川駅から西へ15分ほど歩くと、大坂道の道標が立っている。この大坂道の北側は小高い丘陵となっており、たしかに身を隠しながら進むにはよさそうだ。

写真:大坂道の道標
写真:大坂道の道標

そんなことを考えつつ、次は同じく精華町の稲植神社へと向かう。JR・祝園駅と近鉄・新祝園駅からは徒歩15分ほどだ。この神社は5世紀ごろ建立され、また口伝承によると、元祇園(京都八坂神社の元)ともいわれるほど、古い歴史を持つという。

宮司の松井利光さんによると、この神社は応仁の乱の時に、一度焼失したと伝わっているそうだ。

ところがそれとは別に、伊賀越えの際、家康一行が焼き払ったとする説もあるという。

写真:稲植神社
写真:稲植神社

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