歴史街道 » 本誌関連記事 » 関ヶ原合戦の前日、すでに毛利輝元は徳川家康と和睦していた!?

関ヶ原合戦の前日、すでに毛利輝元は徳川家康と和睦していた!?

2019年09月14日 公開
2022年03月15日 更新

渡邊大門(歴史学者)

毛利輝元
毛利輝元像

激戦の末、裏切りで勝敗が決したとされる関ヶ原合戦は虚構だった? 一次史料をもとに最新研究が明らかにした天下分け目の真実とは?

小説やドラマなどで度々描かれ、よく知られている。が、それらの多くは後世に記された二次史料がもとであり、史実かどうかは疑わしい。

渡邊大門著『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』(PHP新書)では、同時代の一次史料をもとに関ヶ原合戦を再検証しているが、ここでは関ヶ原直前における毛利輝元の行動について紹介する。

※本稿は、渡邊大門著『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』(PHP新書)より、一部を抜粋編集したものです。

 

毛利輝元、尋常ならざるスピードで大坂へ

毛利輝元は西軍の総大将として大坂城に入城するが、毛利氏は一枚岩ではなかった。その背景には、毛利家を支える吉川広家と黒田長政との関係がある。この間の経緯を確認することにしよう。

慶長4年閏3月、黒田長政は吉川広家に宛て、互いの信頼関係を強固なものにするため、血判起請文を差し出している(「吉川家文書」)。石田三成襲撃事件で明らかなように、長政は完全な家康派だった。書状を受け取った広家は吉川元春の三男で、元春と兄の元長が亡くなったあと、吉川の家督を継承していた。

黒田長政と広家の親密さは、ある事件からもうかがえる。慶長4年7月、広家は五奉行の一人・浅野長政と伏見で喧嘩に及んだ(「吉川家文書」)。輝元は仲介役を務め解決を図ったが、結局は黒田長政の助力が必要であった。同年八月、黒田長政は広家に対し、浅野長政の一件が和解したことを告げる書状を送っている(「吉川家文書」)。2人は入魂の間柄だった。

慶長5年7月12日、三奉行(長束正家、増田長盛、前田玄以)は輝元に書状を送り、秀頼を守るべく大坂に来てほしいと依頼した。3日後の7月15日、輝元は大坂に行くことを決意し、加藤清正にともに行動するよう促した(「松井文庫所蔵文書」)。この前日の14日、三奉行のクーデターによって、大坂の諸大名の屋敷が軍事的に制圧されたのである。

慶長5年7月15日、島津惟新は景勝に書状を送った(『薩藩旧記雑録旧編』)。内容は輝元、秀家をはじめ、大坂御老衆(長束正家、増田長盛、前田玄以)、大谷吉継、石田三成が談合し、秀頼のために景勝と連携を望んでいることを伝えたものである。相当なスピードで、反家康の体制が形成されたのである。

毛利輝元は慶長5年7月17日に「内府ちかひの条々」が発せられると、いち早く広島を発して大坂城に入城し、西軍に属した。輝元が入城したのは7月19日のことであり、このスピードは尋常ならざるものがあった。すでに7月17日に子の秀元が6万の軍勢を率いて、大坂城西の丸を占拠していたことも判明している(『義演准后日記』)。輝元が嫌々ながら入城したにしては、準備があまりに周到すぎる。

むろん、こうした行為は、家康の不信感を煽ることになった。同年8月8日、家康は長政に対して「輝元が謀叛の意を持っていると不審に思っていたところ、広家が輝元の謀叛を承知していないことを承り、満足した」という内容の書状を送った(「吉川家文書」)。輝元は反旗を翻していない、と家康は認識したというのである。

広家は長政を通して家康に対し、あらかじめ輝元が大坂城に入った経緯などを釈明した弁明書を送っていた。当初、家康は輝元が西軍に与していたことを不審に感じていたが、広家の書状を手にして安心したようである。つまり、広家は東軍に心を寄せていたが、輝元の気持ちは西軍にあったことがわかる。

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