結論を先取りするようであるが、合戦前日の毛利輝元の和睦について述べておきたい。家康の側近である井伊直政・本多忠勝の血判起請文には、1)輝元に対して家康が疎略にしないこと、2)吉川広家と福原広俊が家康に忠節を尽くすうえは、家康が疎略にしないこと、3)忠節が明らかになれば、家康の直書を輝元に渡すこと(分国の安堵も相違なし)、と記され、吉川広家と福原広俊に宛てられている(「毛利家文書」)。
毛利家が東軍に与するに際して、起請文を取り交わすことにより、互いの約束を強固に取り結んだのである。輝元が家康と和睦を結んだのは、広家による強い説得があったと考えられる。
同日付で、福島正則・黒田長政から吉川広家と福原広俊に送られた連署血判起請文にも、輝元に対して家康が疎略にしないこと、などが記されている(「毛利家文書」)。井伊直政・本多忠勝の起請文に加えて、正則と長政の起請文が提出された理由は、輝元が東軍に勧誘した2人の確約を欲したのであろう。
この2通の起請文によって、毛利家が東軍に与することが明らかになったが、この事実について、南宮山に布陣する安国寺恵瓊と毛利秀元は知らなかった。西軍が敗北した大きな要因は、毛利氏の土壇場の寝返りにもあったのである。
ただし、家康との和睦は消極的なもので、毛利勢は西軍に攻め込むようなことはしていない。あくまで日和見的な態度であり、万が一、西軍が有利に運んだならば、次の一手、つまり東軍への攻撃を想定していた可能性も否定できない。
更新:11月21日 00:05