同年8月17日、長政は家康の書状の写とともに、広家に対して「輝元が西軍に与したことは、安国寺恵瓊が独断専行で行ったことであると、家康公もお考えになっているので、広家から輝元に内情をよくよく説明し、家康公と輝元が入魂になるように、ご尽力をお願いしたい」という内容の書状を送った(「吉川家文書」)。
広家は輝元が西軍に与したのは、事情を知らないまま、安国寺恵瓊が勝手に進めたと申し開きをしたようである。家康からすれば、事を荒立てて輝元を敵にするのは得策ではなく、逆に懐柔して東軍に引き入れる方が有利である。そこで、長政を用いて広家を丸め込み、責任のすべてを恵瓊に押し付けたのであろう。家康の言葉は、広家にとって救いとなった。以後、広家は恵瓊の独断専行を前面に押し出し、毛利家の責任を回避する。
安国寺恵瓊は毛利氏の政僧であり、秀吉存命中には秀吉にも仕えていた。恵瓊は2人の主君に仕え、各地を転戦した。恵瓊は小早川隆景、吉川元春の亡きあと、毛利家を主導する立場にあった。しかも、恵瓊は石田三成と入魂であり、最初から西軍に与していた。この時点において、広家と恵瓊の考え方に相当な温度差があったのは事実である。
とにかく広家は、大坂入城と西軍への加担が輝元の意志であるにもかかわらず、その場しのぎで恵瓊の独断専行であると言い繕ったのである。
輝元の行為を恵瓊への責任転嫁で収束しようとしたものの、輝元の大坂入城という厳然たる事実は、広家を微妙な立場に追い込んだ。それは、申し開きと矛盾する行為だったからである。黒田長政は、盟友・吉川広家をめぐって苦悩する。同年8月25日、長政は広家に対して「先の手紙で申し入れたことについては、もう届いておりますでしょうか。とにかく輝元と御家を存続させるために、物事を正しくわきまえることが必要です」という内容の書状を送っている(「吉川家文書」)。
広家は家康が有利と感じながらも迷っている状況だったので、長政はあえて決断を迫っているのである。長政は返事に詳しく書いて欲しいと述べ、追伸で家康が駿河府中まで出馬したことを記している。ところが、同年8月25日、広家は西軍方として伊勢・安濃津城(三重県津市)の戦いに出陣した。慶長5年8月頃のものと推定される広家の国許への書状には、伏見城には5、600人の軍勢がいるが、城が普請されているので、容易に攻め崩すことはできないであろうと記されている(「吉川家文書」)。
書状の続きには、家康が西上することを聞いていないとしたうえで、軍勢を東上させることが肝心であると説き、国許の城郭の普請を油断なく行うように伝えている。広家は家康の西上を恐れ、国許の城郭整備を求めたのである。同年9月12日付の広家の書状によると、8月25日に安濃津城を落城させた広家は、毛利秀元と安国寺恵瓊とともに、同年9月7日に南宮山(岐阜県垂井町)に着陣した(「吉川家文書」)。
以上の経過により、広家をはじめとする毛利勢力は西軍の主力と位置づけられており、豊臣方もそう考えていたはずである。
ところが、関ヶ原合戦前日の9月14日、輝元は東軍に与することを決意していた。
更新:11月21日 00:05