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なぜ徳川家康は“織田家の菩提寺”を移転させた? 名古屋に残る「関ケ原の影響」

2023年10月17日 公開

歴史街道編集部

名古屋城の天守と本丸御殿
写真:名古屋城の天守と本丸御殿

関ケ原合戦で徳川の天下が定まったように見えるが、戦いは終わったわけではなかった。それを強く感じ取れる場所こそ、名古屋だ。豊臣政権の創始者・秀吉、徳川家康、そして加藤清正。この三人のゆかりの地を訪ねると、明治維新後に至るまでの関ケ原の影響が見えてきた。

※本稿は『歴史街道』2023年11月号の総力特集「新・関ケ原」から一部抜粋・編集したものです

 

難攻不落の城と豪華絢爛な本丸御殿

名古屋城の清正石写真:名古屋城の清正石

愛知県の名古屋市は、戦国武将とは切っても切れない町だ。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった三英傑だけでなく、前田利家、加藤清正、前田慶次といった錚々たる面々とゆかりがあり、さながら「戦国エピソードの玉手箱」といった趣きがある。

そんな名古屋に、今回は秀吉、家康、加藤清正という三人のゆかりの地を訪ねることとした。

まずは名古屋といえば天下の名城ということで、名古屋城へと向かう。地下鉄・名古屋城駅から、徒歩5分ほどだ。

城内に進んでいくと、思わず感嘆してしまう。深く掘られた堀や高く積み上げられた石垣、そして聳え立つ天守を見上げると、すごいお城だと圧倒される。

名古屋城は慶長15年(1610)に築城が始まり、その際、家康は加藤清正、福島正則ら豊臣恩顧の西国大名二十家を動員した。

関ケ原の戦いに勝利して、家康が征夷大将軍になったとはいえ、大坂城には豊臣秀頼が健在だった。そこで、豊臣方への包囲網形成、東海道の防衛強化、そして西国大名への牽制のために、名古屋城を築き始めたのである。

現代のわれわれから見ても、名古屋城は難攻不落の要害であり、当時の武将たちも、徳川の天下が定まりつつあることを実感したことだろう。

とりわけ、城内で目を引くのは、本丸御殿だ。本丸御殿は慶長20年(1615)2月に完成したが、太平洋戦争時に天守とともに焼失。だが平成30年(2018)、10年におよぶ工事をへて復元されたのである。

御殿内を進むと表書院があり、金箔を用いた襖絵などが豪華絢爛で、思わず目を奪われる。創建時には、最大かつ最も格式の高い間として、藩主に謁見する際に用いられたそうだ。

しかし驚くべきことは、その表書院のような美しい部屋が、いくつも続くことだ。本丸御殿の広さは建物だけで3100平方メートルもあり、近世城郭御殿の最高傑作と評されるそうだ。後の時代に増築された部分もあるとはいえ、創建時にこれを見たら、世の武将たちも圧倒されたに違いない。

ちなみに、名古屋城内には、清正石と称される巨石がある。大きさ約8畳敷、重さ推定10トンとされる、名古屋城の石垣で最大の巨石だ。加藤清正によって運ばれたという伝承からその名が付いた。

だが、その石垣を実際に施工したのは黒田長政だという。清正が築城の名手であることから、そのような伝承が生まれたと考えられている。

 

家康ゆかりの寺社

若宮八幡社写真:若宮八幡社

名古屋城築城にともない、家康は周辺の寺社にも足跡を残している。そのひとつが若宮八幡社だ。地下鉄・矢場町駅から徒歩5分のところにある。

もとは現在の名古屋城三の丸にあたる場所に鎮座していたが、慶長15年、名古屋城築城にともない、家康によって現在地に遷座され、名古屋総鎮守と定められた。

歴代の尾張藩主からも崇敬された神社とのことで、境内にたたずんでいると、厳かな空気が感じられる。またこの神社で毎年5月に催される若宮まつりは、江戸時代からの伝統を持ち、名古屋三大祭のひとつに数えられているそうだ。

若宮八幡社から10分ほど歩くと、大須観音の名で親しまれる真福寺宝生院がある。

こちらも移転してきた寺で、もとは尾張国長岡庄大須郷(現在の岐阜県羽島市)に所在していた。当時、「古事記」など貴重な古典籍を数多く所蔵していたが、水害に遭うこともあった。それを知った家康が、慶長17年(1612)、現在地に寺を移させ、その際に文庫も建立されたのである。

現在、大須観音の文庫には国宝・重要文化財を含む約1万5000点もの古典籍が収蔵されており、家康は文化財保護の面でも貢献をしていたのだ。

大須観音写真:大須観音(真福寺宝生院)

大須観音から、にぎやかな商店街を通って東へ10分ほど進むと、万松寺がある。織田信長の父・信秀が建てた、織田家の菩提寺として知られる寺だ。

もとは名古屋城(当時は那古野城)の南側にあり、家康も織田家の人質だった時に、この寺に預けられていた。そして万松寺も、名古屋城の築城にともない、現在地に移されたというわけだ。

万松寺の住職・大藤元裕さんが、名古屋城の築城についてこう教えてくれた。

「もともと、尾張の中心地は清須でしたが、家康は大坂方が攻めてきた時の防備を考え、台地の上に名古屋城を築き、尾張の首都機能も移しました。その際、万松寺も移されましたが、当時の寺は防衛機能も持っていたので、いわば名古屋城を守るための出城のような位置づけだったのでしょう」

それでこのあたりに寺社が多いのか、と頷きつつ、織田家の菩提寺として、江戸時代にはどのような存在だったのかが気になる。

「家康は織田家の存在を、徳川の天下を覆すような力を秘めているとして恐れていたのではないでしょうか。一方で寺のほうも、徳川家をはばかり、江戸時代には織田家の家紋を出さなかったと思います」

織田家ゆかりの寺も、関ケ原後の情勢に影響を受けていたのだ。

ところで、万松寺は加藤清正ともゆかりがある。名古屋城築城の際、清正はこの寺を宿舎とし、また築城の際に発見した仏足石(仏の足跡を刻印した石)を尊んで、寺に奉納しているのだ。万松寺を訪ねる際は、そちらも見ておきたいものである。

万松寺写真:万松寺

万松寺の仏足石写真:万松寺の仏足石

名古屋市には、ほかにも家康ゆかりの寺がある。笠寺観音の名で親しまれる笠覆寺だ。

名古屋鉄道・本笠寺駅から歩いて3分ほどの境内は、広々と穏やかな空気がながれ、その一角に「人質交換之地」碑がある。この寺は、織田家の人質だった家康と、今川家に捕らえられた織田信広の人質交換が行なわれた場所でもあるのだ。

名古屋城を築く際、家康は万松寺に預けられたり、笠寺観音で人質交換されたりと、尾張で味わった苦難の日々を思い出したかもしれない。それを思うとより一層、天下への仕上げとして、名古屋城の築城に力が入ったことだろう。

笠寺観音(笠覆寺)の 「人質交換之地」碑写真:笠寺観音(笠覆寺)の 「人質交換之地」碑

笠寺観音写真:笠寺観音

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