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なぜ徳川家康は“織田家の菩提寺”を移転させた? 名古屋に残る「関ケ原の影響」

2023年10月17日 公開

歴史街道編集部

 

秀吉と清正の生誕地へ

清洲山王宮日吉神社と子産石 写真:清洲山王宮日吉神社

名古屋城築城の経過をたどっていくと、豊臣家=大坂というイメージに見えてくるが、そもそも秀吉の出身地は現在の名古屋市中村区である。

秀吉の天下取りは尾張からはじまったのであり、その出生地もたどることとする。まずは少しだけ足をのばして、清須市の清洲山王宮日吉神社へと向かう。秀吉出生の伝承と深いかかわりがあるからだ。

神社は、名古屋鉄道・新清洲駅から歩いて8分ほど。

境内の一角に、「子産石」と称される石がある。女性がこの石に触れると懐妊すると伝えられ、清須出身の秀吉の生母・大政所も、子産石に触れて秀吉を授かり、幼名を「日吉丸」と名付けたそうだ。

境内を見ると、拝殿の前には狛犬ではなく、申の姿がある。清洲山王宮日吉神社の神様の使いは申とのことで、猿と称された秀吉との奇縁を感じる。

次は、秀吉の出身地に向かう。地下鉄・中村公園駅から徒歩10分ほどいくと、常泉寺がある。

慶長年間(1596〜1615)、秀吉が加藤清正に命じ、自身の生まれたこの地に、常泉寺を建立させたのだ。境内には、秀吉が植えた御手植えの柊や、豊太閤産湯の井戸がある。また本堂内には秀吉をかたどった豊太閤の御神像も鎮座している。

副住職の矢島昭輝さんに、寺にまつわる話をうかがった。

「この御神像はもともと大坂城にあり、加藤清正が豊臣秀頼公にお願いして、この寺に移されました。

ただ、徳川の時代に入ると、太閤ゆかりの寺ということで焼き討ちにあい、それからは常泉寺の名を掲げられませんでした。寺を再興できたのは、江戸時代が終わり、明治を迎えてからなのです」

徳川家康が天下人になったことは、秀吉にかかわる地にも、影響を及ぼしていたのだ。

常泉寺の豊太閤御手植えの柊写真:常泉寺の豊太閤御手植えの柊

常泉寺の西隣に中村公園があり、園内には秀吉を御祭神とする豊國神社が鎮座している。明治18年(1885)、秀吉を顕彰しようという地元有志の尽力によって創建されたのだ。

宮司の近藤一夫さんは、こう語る。

「明治維新は、いわば関ケ原の雪辱のような側面があります。そのため、明治になってから秀吉を再評価する声が上がり、まず京都で豊国神社が再建され、大阪でも豊國神社が創建されたのです」

秀吉ゆかりの地を訪ねると、関ケ原合戦の影響が明治にまで及んでいたことを実感させられるのであった。

豊國神社写真:豊國神社

旅の最後に、加藤清正の生誕地に向かう。豊國神社のすぐ東隣、常泉寺の南隣にある妙行寺だ。

名古屋城築城の際、清正はその余材と普請小屋をもらいうけて、自身が生まれた地に、妙行寺を再建したという。

寺には清正公誕生之地碑などがあるが、何といっても目を引くのが、境内の正面に雄々しく聳える清正像だ。甲冑姿の清正像は、敵対する者を寄せつけないような威風を醸し出している。

もともと清正は、秀吉と母親同士が従姉妹ということもあり、秀吉に仕えてきた。

関ケ原合戦後は徳川家と豊臣家の融和に尽力し、慶長16年(1611)には、二条城における家康と豊臣秀頼の会見において、秀頼の後見役を務めあげている。

ただ残念なことに、清正はその直後に病で世を去った。妙行寺の清正像を見ていると、彼が存命であれば、徳川方と大坂方の間に立ち、大坂の陣とは別の結末もあったのではないかと思えてくるのだった。

ともあれ、名古屋を歩いていると、知られざる歴史に数多く出会え、驚きの連続であった。名古屋を訪ねる際には、この三人以外にも、気になる武将に注目すると、それぞれに新たな発見があるに違いない。

妙行寺の清正公誕生之地碑写真:妙行寺の清正公誕生之地碑

妙行寺の清正像写真:妙行寺の清正像

 

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