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“戦国大名6割の墓”がある聖地も? 信長に秀吉、真田親子ゆかりの地・和歌山の名所

2022年11月23日 公開
2024年05月22日 更新

歴史街道編集部

和歌山城
和歌山城(写真:松村シナ、以下同)

信長、秀吉、家康の三傑だけでなく、真田信繁など、和歌山には戦国武将ゆかりの地が数多く残っている。戦国時代から江戸時代初期にかけて、彼らは和歌山とどのような関わりを持っていたのか。いまも残る戦国武将たちの足跡を、編集部が辿った。

※本稿は『歴史街道』2022年11月号より、抜粋・編集したものです。

 

和歌山市に残る三傑ゆかりの地

和歌山県というと、世界遺産の熊野古道を思い浮かべる方も多いだろうが、豊かな自然に囲まれた紀州には他にも名所が多い。今回は、戦国武将にまつわるゆかりの地を中心に、紀北地方を巡った。

新大阪駅から特急列車に乗っておよそ1時間でJR和歌山駅につき、さらに車で西へ10分程度。和歌山市のシンボルともいえる和歌山城が姿を現わす。和歌山城は、もともと豊臣秀吉の時代に築かれたものである。

天正13年(1585)、紀州を平定した秀吉は、弟・秀長に命じて紀ノ川河口部の岡山(現・虎伏山)に和歌山城を造らせた。普請奉行を担った家臣の一人が藤堂高虎である。のちに、秀長に代わって桑山重晴が和歌山城主となり、関ケ原合戦後は浅野幸長が、その後は紀州徳川家の祖・頼宣が城主となった。

現在の和歌山城は、豊臣・桑山時代、浅野時代、徳川時代と幾度にもわたって改築されたものだが、その違いが最も分かりやすいのは石垣である。

和歌山城北側の裏坂を登っていくと、2種類の石垣が混在しているのが分かる。

一つは、自然の石をそのまま使った「野面積み」で、豊臣政権時代を象徴する石垣だ。もう一つは、石がやや加工され、「打ち込み接ぎ」と呼ばれる技術が施された浅野時代の石垣である。

さらに、徳川時代に整備されたという一中門の石垣は、加工によって綺麗に整えられた石材が使われており、この時代を象徴する「切り込み接ぎ」の技術が見てとれる。

裏坂の石垣。手前が打ち込み接ぎで、奥が野面積みになっている
裏坂の石垣。手前が打ち込み接ぎで、奥が野面積みになっている

表門の石垣。熊野の花崗斑岩が用いられた切り込み接ぎのもの
表門の石垣。熊野の花崗斑岩が用いられた切り込み接ぎのもの

現在の天守閣は、落雷や空襲による焼失を経て、昭和33年(1958)に復元されたもの。城の北部を流れる紀ノ川を天然の堀として利用したり、攻められた際に鉄炮を撃つための塀の狭間や、水を汲みに行くための通路である埋門などもあり、広大な敷地を回るだけでも、至るところで創意工夫が感じられる。

和歌山城から南へ車で約10分。秋葉山公園県民水泳場の脇道を登ると、信長と10年に及ぶ石山合戦を繰り広げた、本願寺第十一世宗主・顕如にまつわる石碑がある。

秋葉山はかつて弥勒寺山(御坊山とも)と呼ばれており、信長と激闘を演じた雑賀衆の拠点でもあった。信長による第一次紀州攻めの際、雑賀衆たちは城を築いて徹底抗戦の構えを見せた。

のちに本願寺が信長との和議を受け入れ降伏すると、顕如は雑賀衆の地へと移転。大坂を引き払い、雑賀御坊(現本願寺鷺森別院)に本願寺を移したという。

秋葉山に佇む「顕如上人桌錫所の碑」と記された石碑は、明治期に本願寺の門徒たちが顕如の功績を称えて造ったものだと伝わる。

雑賀崎や和歌の浦が一望できるこの地で、雑賀衆はいかにして信長の大軍を相手に戦ったのだろうか。顕如が訪れたのも、"信長に屈しなかった地"として思い入れがあったのかもしれない。

顕如上人桌錫所の碑
顕如上人桌錫所の碑

 

108の階段を駆け下りる「和歌祭」

秋葉山に立ち寄ったら、ぜひ足を運びたいのが和歌の浦である。かつて万葉の歌人たちが訪れたという絶景の地には、紀州東照宮が鎮座している。紀州藩主・徳川頼宣が元和7年(1621)に建立したものだ。

幼少期を父・家康と過ごした頼宣は、尊敬する父を祀るためいち早く東照宮の建立を決めた。本殿にあしらわれた見事な彫刻には、家康・頼宣父子の鷹狩りの様子などが描かれ、父との思い出を遺そうという頼宣の想いがうかがえる。

紀州東照宮を建立した翌年、頼宣は例大祭として「和歌祭」を催した。その伝統は現代も続いており、毎年5月には和歌祭が開催されている。楼門から参道へと続く108の石段を、神輿を担いだ男たちが勇ましく駆け下りるさまは圧巻であり、祭りには県外からも多くの観光客が訪れる。

和歌の浦の絶景を眺めるなら、他におすすめしたいのが番所庭園である。和歌山城に最も近い番所として江戸時代に設けられた地で、後期には黒船の見張り番所としての役割も果たしていたという。

紀州東照宮
紀州東照宮

歴史街道 紀州地図1

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