信長や秀吉が脅威と見なしていた紀伊国。なかでも欠かせないのが、やはり宗教勢力であろう。
和歌山駅から東へ車で30分。岩出市に入ると、かつてこの地で大きな勢力を誇っていた根来寺の境内に到達する。
秀吉による紀州攻めの際に一部の建物を除き焼失した根来寺は、慶長5年(1600)に家康によって復興の許可が下りた。現在は国宝の大塔を始め、大師堂、光明真言殿など数々の重要文化財を見ることができる。
根来寺に訪れた際は、ぜひ岩出市民俗資料館や、ねごろ歴史資料館にも足を運びたい。かつてこの地で根来衆たちがどのように暮らし、発展を遂げてきたのかが展示を交えて分かりやすく解説されており、根来寺の歴史を知るうえでも重要な場所である。
歴史資料館の近くには根来寺遺跡展示施設もあり、平成の発掘調査で出土した半地下式倉庫等のレプリカも展示されている。
岩出市民俗資料館に展示されている『根来軍記』。秀吉の根来攻めが物語風に書かれたもの
根来寺から東へ1時間ほど車で進むと、厳かな深い木々に囲まれた真言宗の聖地・高野山へと辿り着く。弘法大師空海によって開かれた修禅の道場であるこの地は、秀吉や徳川家とも浅からぬ縁がある。
秀吉は紀州攻めで根来寺などを攻略した後に、高野山へと兵を進めた。しかし、このとき交渉役を務めた木食応其によって、高野山は焼き討ちの危機を回避。全盛期の広大な寺領は返上したものの、弘法大師ゆかりの重要な拠点は残すことを許された。
現在は110以上の寺院や宿坊が連なり、修禅の場としての役割を担い続けている。
高野山の中核を成す建造物というと、壇上伽藍が挙げられる。弘法大師が高野山を開創した際、真っ先に着手された堂塔群である。
なかでも根本大塔は、高野山のシンボルともいえる建物だ。高さ約48.5メートルにも及ぶ日本初の多宝塔で、弘法大師は修禅の根本道場として建立した。
根本大塔
根本大塔はこれまで落雷や火災により5回焼失しているが、その都度、時の権力者がその復興に尽力してきたという。豊臣秀吉、徳川家光などもその1人だ。
秀吉ゆかりの地としては、総本山の寺院・金剛峯寺も挙げられる。金剛峯寺は、かつて木食応其が建立した青巌寺と興山寺とが合併した寺院である。
金剛峯寺
特に青巌寺は、秀吉が亡き母の菩提を弔うために応其に造らせたものだ。なかでもひと際豪華な上壇の間は、秀吉が訪れたときに用いる部屋で、その奥にある上々壇の間は、母のために造らせた場所だという。格天井にあしらわれた見事な花の彫刻からも、秀吉の母に対する特別な想いが感じられる。
青巌寺にはもう一つ、秀吉に関連する部屋がある。甥・豊臣秀次が自刃した「柳の間」だ。秀吉の不興を買って高野山に追放された秀次は、しんしんと降る雪と柳が襖に描かれたこの部屋で、静かにその生涯を終えた。
戦国時代ゆかりの地といえば、奥之院も外せない。弘法大師の御廟をはじめ、参道には皇室、公家、大名家など数多の墓が連なる。戦国大名の6割以上の墓がこの地にあるといわれ、信長、秀吉だけでなく、明智光秀や武田信玄、石田三成らの墓もある。
奥之院
戦国大名のなかでも家康の墓だけは、奥之院からやや離れた場所に位置する。江戸時代に三代将軍・家光が、家康と二代将軍・秀忠の菩提を弔うため、霊台を建造したからだ。
高野山の復興に助力した武将といえば秀吉が有名だが、実は家康も、幕府成立後に寺領2万1000石を認めるなど、高野山との関係は良好であった。
その後も徳川幕府は長期にわたり高野山を支援し続けたことから、このような特別な霊台の建造を許されたと考えられる。
来年の2023年は、弘法大師空海の誕生から1250年という節目の年でもある。5月14日から7月7日までの517日間に、記念大法会も行なわれるので、ますます注目されそうだ。
戦国武将のなかでも真田信繁は、とりわけ高野山とのゆかりが深い。関ケ原の戦いで西軍が敗北し、信繁は父・昌幸とともに高野山への蟄居を命じられた。
その麓の九度山に住居を構えた親子だが、高野山の蓮華定院とも縁がある。この寺院は最初に真田親子が蟄居した場所であり、2人は九度山へ移った後も、来訪者のあった際には、蓮華定院にて出迎えたという。
上段の間は昌幸が座した部屋で、真田家の甲冑や、信繁が認めた手紙のレプリカなども展示されている。
大坂夏の陣で信繁が戦死し、蓮華定院の役割は一旦は終わりを迎えたが、徳川方に与して真田家を守った兄・信之の尽力により、蓮華定院は宿坊となり、また真田家の菩提寺として「真田坊」と呼ばれるようになった。
建物は火災などによって度々焼失したものの、万延元年(1860)に真田家の援助によって再建され、宿坊は現在でも利用できる。
蓮華定院
高野山から車で40分ほど北へ進むと、真田親子が暮らした九度山に至る。
いまでこそ九度山町として独立しているが、もともと九度山は高野山の一部であった。真田親子が九度山に居を構えた理由は諸説ある。
高野山の山頂付近は寒さが厳しいため、麓の九度山で生活したのではないかという説と、信繁が妻を連れていたため高野山の「女人禁制」に該当したという説である。
流人ではあるものの、昌幸・信繁は決して厳しい監視下におかれたわけではなかった。2人の屋敷は別々に造営され、それぞれ家族をこの地に呼び寄せており、さらには家臣の屋敷も近くに造られていた。
流人生活は慶長5年より始まり、2人は再起の機会をうかがいつつ、この地で力を蓄えていた。しかし昌幸は志半ばで病にかかり、慶長16年(1611)にこの世を去る。
一方の信繁は、翌年に出家し「好白」と名乗るも、決して再起を諦めなかった。慶長19年(1614)、大坂冬の陣の直前、信繁は14年間に及ぶ流人生活から脱け出し、戦場へ赴き指揮をとった。
九度山にある真田庵は、真田親子の屋敷跡に建てられたお寺である。敷地内には昌幸の墓があり、真田庵から東へ170メートルほど進んだところに、「真田古墳」と呼ばれる穴がある。
あくまで伝説ではあるが、この穴は大坂城へと続いていて、信繁は抜け穴を通って大坂城へ入ったといわれている。
九度山の名所として、真田庵のほかに外せないのが九度山・真田ミュージアムである。真田昌幸、信繁、信繁嫡男の大助と、三代にわたる真田家の物語を後世に伝えるべく、平成28年(2016)に建てられた施設だ。
信繁の象徴ともいえる赤い甲冑が入口正面に展示され、主に信繁の生涯について、パネルや映像などで分かりやすく解説している。大河ドラマ「真田丸」ゆかりの展示物もあり、ファンならぜひとも訪れたい場所といえよう。
真田庵
九度山・真田ミュージアム
戦国時代から400年以上経過した現在でも、その面影を感じられる紀州和歌山。和歌山県では現在、「わかやま歴史物語」と題して、神話の時代から近代に至るまで、歴史や偉人にまつわるスポットを中心に巡る、100個に及ぶ旅のモデルを紹介しているという。
※わかやま歴史物語 http://wakayama-rekishi100.jp
歴史好きの方は、現地を訪れ、戦国武将たちの遺風を肌で感じてみてはいかがだろうか。
更新:11月22日 00:05