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曽根昌世、岡部正綱、依田信蕃、下条頼安~「天正壬午の乱」で徳川家康の窮地を救った人々

和田裕弘(戦国史研究家)

徳川家康

徳川家康の生涯において重大な局面だった天正壬午の乱。選択を誤れば 破滅の危機にあったこの状況で、最善の成果を挙げられたのは、徳川家臣だけでなく、 多くの人々の助力があってこそだった。ここでは、天正壬午の乱で重要な役割を果たした男たちを紹介しよう。

※本稿は『歴史街道』2023年7月号の特集1「徳川家康と本能寺の変」から一部抜粋・編集したものです。
 

和田裕弘(戦国史研究家)
昭和三十七年(一九六二)、奈良県生まれ。織豊期研究会会員。著書に『織田信長の家臣団─派閥と人間関係』『信長公記─戦国覇者の一級史料』『織田信忠─天下人の嫡男』『天正伊賀の乱』などがある。

 

「天正壬午の乱」とは、「本能寺の変勃発から徳川・北条同盟成立までの関東・中部・東海地方の争乱」(平山優著『天正壬午の乱 増補改訂版』)と定義されている。

信長の武田征伐後、上野・甲斐・信濃などは織田領国として編成されたが、本能寺の変後、この体制は瓦解した。上野の滝川一益は北条氏に敗北して帰国、甲斐の河尻秀隆は一揆に攻められて敗死、信濃も森長可をはじめ信長の旧臣は領国を守れずに逃げ帰った。

こうした中、甲斐、信濃は、上杉氏、北条氏、徳川氏が絡み、分捕り状態と化した。その最中で、徳川方として活躍した武田旧臣を紹介しよう。

 

曽根昌世~甲斐侵攻で活躍した旧武田勢

甲斐への侵攻で活躍した一人が、曾根昌世である。『甲陽軍鑑』によると、武田信玄の奥近習出身。真田昌幸、三枝(山県)昌貞とともに活躍が特筆されており、「信玄が両眼のごとく」と評された。

信長は武田攻めのあと、旧武田領の国割を実施し、昌世に対しては信玄没後から内通していた忠節として、居城としていた興国寺城周辺の河東を与えんとしたが、昌世は富士下方を望んだようである。

本能寺の変後は家康に属して甲斐の武田旧臣への調略を展開し、甲斐侵攻作戦では先陣を務めた。恵林寺方面に派遣され、五百人の軍勢で北条方の3千と戦い、6、7百を討ち取ったともいう。

天正10年6月12日には加賀美右衛門尉に対し、岡部正綱と連署して本領を安堵。同様に同月15日にも米山正成に本領安堵などを伝えている。同月17日には、家康重臣の大須賀康高を含めた三人で、武田旧臣の窪田正勝に対し、昌世に協力して従軍したことを賞し、知行を与えている。8月9日には岡部正綱と連署して新津直太郎に本領の替地を保証。

9月28日付の加津野昌春(真田昌幸の実弟)宛の家康書状を見ると、昌春の尽力で昌幸が徳川方となったことは祝着であるとし、北条氏直が敵対しても、昌世、依田信蕃と相談するように指示している。これを裏付けるように、10月10日付で昌世と信蕃が連署し、昌春に対し、昌幸を徳川方に帰属させた功を賞している。昌世の活躍振りが分かる。

家康は、甲斐、信濃を版図とした後、河東を昌世に与えなかったが、これは譜代の主勝頼を裏切ったためという。その後、昌世は徳川家を去り、交流のあった昌春と一緒に行動したようで、ともに蒲生氏郷に転仕した。

 

岡部正綱~主君を転々としながら戦では殿軍を

昌世とともに甲斐平定で活躍したのが岡部正綱。今川家臣で義元の近習出身である。もともとは大身の家柄だったが、父常慶が勘気を受けて蟄居したことで、氏真の時代には小身となっていた。

しかし、主家滅亡に際しては今川方として踏み止まり、永禄12年(1569)には、信玄が撤退したあとの駿府館を占拠して小人数で籠城した。その後、武田軍に攻められたが、信玄は正綱を「ただ者ならず」と評価し、助命して取りたてて先鋒をさせる意図をもって、鉄山和尚に和睦の斡旋をさせて開城させたという。氏真の会稽の恥を雪ぎ、「大形ならぬ大剛の仁也」と評された。

信玄に転仕後は50騎を与えられ、知行も3百貫から3千貫に加増となり、侍大将に抜擢され、岩村城攻めでは馬場信春の組下として信長軍を追撃したこともあったという。

天正10年の武田攻めの前には、家康を通じて信長方に内通、武田攻めにも参陣し、5月11日付で家康から身上を保証された。変後の6月6日には、甲斐の下山へ出陣して砦の構築を指示されている。これは家康と同行していた穴山梅雪が客死したことを受け、梅雪の旧領を確保させる狙いだったといわれる。また、前述のように、曾根昌世らと組んで武田遺臣の懐柔を託されている。

北条氏が大軍で甲斐、信濃に進撃した時、正綱は家康配下として酒井忠次、大久保忠世らとともに信濃乙事に陣し、北条軍と対峙した。

徳川方3千余に対し、北条方は4万3千騎を率いて梶賀原に布陣。北条軍の着陣を知った徳川方は撤退に移るが、忠次と忠世が殿軍争いをしている間に北条軍が押し寄せたため、正綱が殿軍を引き受けて無事撤退に成功したという。

家康も8月10日には甲府から新府へ陣を移し、若神子の北条氏直と対峙した。家康は同日、御岳衆の身上を保証し、正綱に委ねているが、翌11日には実際に正綱が知行宛行の奉行として差配している。こうした働きが評価され、甲斐・駿河のうちに7千60貫の領地を拝領したという。

翌11年(1583)正月13日、家康は武田旧臣の小浜景隆と間宮信高に対し、甲府の正綱のもとに赴き、留守を務めるよう指示しており、正綱は両者を与力に加えている。同日、家康は梅雪旧臣の穂坂常陸介と有泉大学助に対し、家中全員を率いて甲府に赴き、正綱および平岩親吉の指図を受けるよう命令。正綱は、武田旧臣の束ね役の一人として活躍したが、同11年11月に病死した。

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