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曽根昌世、岡部正綱、依田信蕃、下条頼安~「天正壬午の乱」で徳川家康の窮地を救った人々

和田裕弘(戦国史研究家)

 

依田信蕃~家康が高く評価した忠義の男

家康の信濃平定の先兵として活躍したのが依田信蕃。信濃の国衆出身で、父は信玄に仕えた信守である。

幼年時は武田家の人質として高島城に居していたというが、のち信玄に仕えた。勝頼時代は駿河国田中城を守備し、徳川軍と干戈を交えた。

天正10年の武田攻めの時には、穴山氏、木曾氏などの有力武将が織田方に内通するなど四囲の状況の不利を悟り、徳川方と和睦した。しかし、信蕃は田中城を開城したものの主家に弓引くことはせず、本領である信濃の春日城に帰城した。

その後、勝頼の滅亡を知り、信長から速やかに帰属すれば本領を安堵するという好餌をもって誘われたが、これは虚言であると家康から教えられ、家康に拝謁して麾下に属した。

家康は信蕃との長期にわたる戦いを経て、信蕃の武勇を知悉しており、さらに衰亡する武田氏に忠義を尽くしたことを高く評価していた。信蕃は信長から憎まれていることを知り、家康の助けを得て遠江に蟄居していたが、変直後、家康から甲斐・信濃の平定を命じられて甲斐に入国し、近郷から人を徴し、3千人を集めたという。

これらを率いて本拠地の春日城に戻り、近郷を平定。しかし、春日城では大軍に対処できないとして、「蘆田小屋」を構築して籠城した。北条氏直が甲信を平定するため数万人を率いて信蕃の蘆田小屋を攻めようとしたが、険難であるため諦めたともいう。

7月26日、家康に忠節を賞され、信濃の諏方・佐久両郡を拝領したが、実際には実力で平定する切り取り次第であった。

10月には佐久郡の大井美作の岩村田城を攻撃。苦戦したが、攻略に成功し、大井氏の家臣を麾下に組み入れた。

7月から11月まで信濃の数城を攻略し、佐久郡をほぼ平定する武功を挙げた。翌11年2月、小諸・岩尾の二城を残すのみとなり、21日、翌22日と続けて攻撃し、岩尾城を攻略する。しかしこの時に銃撃され、本陣に戻って治療したものの23日、死去した。36歳だった。

信濃平定に貢献したことから、家康はその忠死を賞し、嫡男源十郎に松平の名字と「康」の偏諱を与え、松平康国と称させた。

 

下条頼安~裏切った叔父への復讐とは

信濃の国衆出身の下条頼安も信濃平定で活躍した一人である。頼安は武田信玄の義弟・下条信氏の次男。頼安の「頼」は勝頼からの偏諱であろう。

信長の武田攻めに際して、下条一族は二つに割れた。

信氏は伊那口の滝沢城を守備し、嫡男の信正(信昌)とともに伊那郡の兵3千を率いて平谷で防戦したものの、信氏の実弟・九兵衛(氏長)が織田方に内通し、譜代の家臣にも裏切られ、三河国へ退去した。

信正は天正10年3月22日、信氏に先立ち三河で病死した。変後、下条氏の旧臣が内談し、裏切り者の氏長を討つべく、三河の信氏のもとへ使者を派遣。信氏の賛意を得て、家康を頼ることに決したが、信氏も6月25日、頓死してしまった。

実質的に下条氏を継いだ頼安は、7月には旧武田勢の飯島衆、片切衆、中脇衆、中沢衆、伊那部衆、上穂衆らを家康の麾下とすることに成功。

同月15日には、小笠原氏と謀って箕輪城の藤沢頼親を誘降し、高遠城を攻略したことを賞され、さらに諏方への出兵を命じられている。8月12日には、飯田城での籠城戦などで無二の忠心を賞されて伊那郡内に所領を与えられた。

頼安は翌11年5月には氏長父子らを討ち取り、謀叛人を粛清。しかし、小笠原信嶺と対立して合戦に発展した。両者に関係の深い寺院が和平を斡旋し、頼安を信嶺の女婿とすることで和睦が成立したが、翌年(1584)正月、頼安が年頭の挨拶に赴いたところを騙し討ちに遭い、無念の最期を迎えている。

 

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