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徳川家康誕生~不遇を耐え、飛躍の糧とした若き日々

2017年12月26日 公開
2022年03月15日 更新

12月26日 This Day in History

徳川家康
 

徳川家康が生まれる。幼名は竹千代。

今日は何の日 天文11年12月26日

天文11年12月26日(1543年1月31日)、徳川家康が生まれました。戦乱の世に終止符を打ち、江戸幕府初代将軍として泰平の世をもたらしたことで知られます。今回は、家康の若い頃に注目してみましょう。

家康は天文11年、三河岡崎城主・松平広忠の嫡男に生まれました。幼名、竹千代。母親は広忠の正室・於大の方(水野忠政の娘)。家康の祖父・清康は瞬く間に西三河を制圧し、勢力を拡大した勇将でしたが、天文4年(1535)に家臣に暗殺されます。清康の嫡男・広忠は、大叔父の松平信定が跡目を狙って広忠を亡き者にしようとしたため、家臣に導かれて一時期伊勢に逃れ、その後、奥三河に潜伏、さらに駿河に赴いて今川義元に庇護を求めました。天文11年、義元の後援を得た広忠は5月に岡崎城に復帰し、翌月、松平信定は降参します。竹千代が生まれるのは、その半年後のことでした。しかし天文13年(1544)、於大の方の実家・水野氏が敵方の尾張の織田氏に与したため、於大の方は離縁。竹千代、3歳の時のことです。

天文16年(1547)、織田信秀が三河に侵攻、広忠は今川義元に援軍を要請し、見返りに6歳の竹千代を人質として駿府に送ることになりました。ところが竹千代は家臣の裏切りにより、今川家ではなく織田家に送られ、人質となってしまいます。翌天文17年、広忠は太原雪斎率いる今川軍とともに第二次小豆坂の戦いで織田勢に勝利し、さらに今川・松平連合軍は天文18年(1549)、安祥城を攻略して織田信広(信長の兄)を捕らえました。広忠は信広と交換というかたちで息子・竹千代を奪還。8歳の竹千代は改めて、駿府に送られました。広忠はその直後に没。病死とも、暗殺ともいわれます。以後、竹千代は12年もの間、駿府で人質暮らしを余儀なくされました。

10歳の正月のこと。今川の家臣たちに「あの三河の意気地なしの小倅が」と嘲笑されると、腹を立てた竹千代は、縁先で袴をめくり、義元ら一同の前で立小便をして見せたといわれます。当時、岡崎城には今川の家臣が城代として入り、松平家の家臣は戦場で捨て石同然に扱われるなど、辛酸を嘗めていました。そんな家臣らにとって、竹千代の大胆な振舞いは、大いに溜飲を下げるものであったようです。また竹千代が墓参りの名目で岡崎に帰った折には、家臣らの窮状を聞くとともに、今川に内密で備蓄した金銭・兵糧・武器を見せられ、竹千代は感涙にむせびました。老臣らは、竹千代が祖父の名将・清康によく似ていることに驚いたともいいます。その後、竹千代は駿府で元服し、松平次郎三郎元信と名乗って、今川義元の姪にあたる関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶りました。元信の元は今川義元の偏諱です。後に、祖父・清康の偏諱をとって、蔵人佐元康と改めました。

永禄元年(1558)、16歳の元康は初陣を迎えます。織田家に寝返った三河寺部城主・鈴木重辰を討つよう、今川義元から命じられたのでした。家康はこの戦いで見事な采配を見せ、支城を次々と抜いて寺部城を孤立させると、奇襲を仕掛けて攻略してのけます。そして2年後の永禄3年(1560)、大きな転機が訪れました。桶狭間の合戦です。

今川義元自ら2万5000の大軍を率いて尾張に進攻、元康は先鋒の大役を任ぜられました。そして、今川方の最前線にあたる尾張大高城への兵糧入れを命じられます。大高城は敵の付城群に囲まれて、任務は困難でしたが、元康は一計を案じます。一隊に大高城から離れた城に奇襲をかけさせ、織田方の援軍がそちらに気を取られた隙に、大高城に一気に兵糧を運び入れました。18歳の若武者らしからぬ、落ち着いた采配ぶりです。さらに元康は丸根砦を急襲して攻略。この報せに今川義元は元康の戦ぶりを大いに称え、元康に大高城の守備を命じました。義元が織田信長の急襲を受けて討ち取られるのは、その直後のことです。

義元敗死の報せに、元康は慌てず情報を確認し、さらに織田の追っ手のないことを見極めてから故郷の岡崎城に退きました。岡崎城に入った元康は、松平家独立を決意します。とはいえ岡崎は今川、織田の二大勢力に挟まれており、どちらかと結ばなければ松平家は生き残れません。元康はまず、義元の息子・氏真に使いを出しました。「ともに、義元公の仇を討ちましょう」。しかし氏真は兵を送らず、予想していた元康は単独で動きます。即座に挙母、梅坪、広瀬などの織田方の諸城砦を落とし、さらに中島郷、刈谷まで攻略して東尾張に勢力を拡大。返す刀で翌年、今度は今川方の中島城を皮切りに、今川方諸城砦を次々と抜き、西三河を手中にします。これによって、祖父・清康時代の版図をほぼ回復しました。

そして動きの鈍い氏真に、今川家との手切れを決意した元康は永禄5年(1562)、尾張の織田信長と清洲同盟を結びました。翌年、元康から家康へ改名。以後、信長と歩調を合わせつつ、今川義元に代わる「東海一の弓取り」の道を歩んでいくことになります。家康の生涯は、この後も苦労と忍耐の連続ですが、人間は苦労すればするほど得るものがあり、強くなれるのかもしれないという気がしてきます。

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