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石川数正が徳川から豊臣へ出奔した理由

2017年11月12日 公開
2018年10月26日 更新

11月13日 This Day in History

家康の重臣・石川数正が秀吉のもとへ出奔

今日は何の日 天正13年11月13日

天正13年11月13日(1586年1月2日)、徳川家康の重臣・石川数正が、豊臣秀吉のもとに出奔しました。出奔の理由はいまだ明らかでなく、徳川家の軍事機密を知る重臣が秀吉のもとに奔ったことに、徳川家は大きな衝撃を受けたといわれます。

石川数正は天文2年(1533)の生まれで、家康よりも9歳年上でした。通称は与七郎。家康が今川家の人質だった時代から側にあり、桶狭間の合戦を機に家康が三河で独立した際には、危険を承知で自ら駿府まで赴き、家康の正室・築山殿と長男・竹千代を無事に連れ帰っています。その後、織田信長との清洲同盟締結に尽力、元服した竹千代は信長と家康から一字ずつ取った信康と名乗り、同盟を象徴しました。それらの功で数正は家老に任ぜられます。

永禄12年(1569)には、家康より岡崎城を拠点とする西三河の旗頭(諸松平家や国人を統御する役割)に任ぜられ、吉田城を拠点とする東三河の旗頭・酒井忠次と並び立つ存在となりました。合戦でも姉川の合戦、三方ヶ原の合戦、長篠の合戦などで武功をあげ、本能寺の変直後の伊賀越えでも家康に従って、三河に帰還しています。

そんな徳川家中において押しも押されもせぬ家老が、なぜ家康から秀吉のもとに奔らなくてはならなかったのでしょうか。伊賀越えの後、数正は家康の命を受けて、山崎の合戦に勝利した羽柴秀吉のもとに戦勝祝いに行っています。2年後の天正12年(1584)、家康と秀吉は小牧・長久手で干戈を交えますが、数正が出奔したのはその翌年のことでした。これを受けて、「数正は秀吉から提示された条件に目がくらみ、籠絡された」「秀吉の器量に惚れ込んだ」といった見方もされています。 確かに秀吉は数正をすぐに8万石の大名に取り立てており、そうした見方もあり得るかもしれません。しかし他家に比べて忠義心の篤さでは群を抜く三河武士の、しかも生涯の大半を徳川家のために尽くしてきた54歳の重臣が、簡単に主家を捨て、裏切り者の汚名を着てまで、秀吉になびくものでしょうか。いささか釈然としないものも感じます。

あるいは鍵となるのは、家康の長男・信康の死かもしれません。信康は天正7年(1579)、武田家との内通疑惑により、織田信長の命で切腹させられています。数正は駿府から信康と築山殿を連れ帰って以来、岡崎城で信康の後見役を務め、その成長を見守ってきました。そして長篠の合戦で初陣を果たし、将来有望な若武者となった信康は、いずれ徳川家の後継者となることは確実でした。それは数正と石川家の将来を保証するものでもあったはずです。そんな信康が突然、濡れ衣を着せられ落命しました。実は、この事件で信長は明確に信康の切腹を命じたのではなく、「徳川殿の良いようにされよ」と言ったのみであったともいいます。ただ信康の正室(信長の娘・五徳)が信長に送った手紙に書いていた信康の行状について、信長が使者の酒井忠次に確認すると、忠次がすべてを事実と認めてしまったため、家康は信康を切腹させざるを得なくなったという経緯がありました。なぜ酒井は信康を庇おうとしなったのか、ここに信康事件の本質と数正出奔の理由があるのかもしれません。

当時の徳川家は、信康を担ぎ、数正を中心とする岡崎衆と、家康を担ぎ、酒井を中心とする浜松衆に分かれていたと見ることもできます。そして信康が家督を継げば、徳川家中の実権は浜松衆から岡崎衆に移ることは確実です。浜松衆がそれを防ぐ手立てとしては、信康を後継者から外すしかありません。つまり信康切腹事件は、酒井ら浜松衆の意思が背後にあった可能性があり、数正もそれに巻き込まれ、信康を失って発言力を失ったと見ることもできるのです。

以上はあくまで可能性に過ぎませんが、そうした経緯で徳川家中において微妙な立場となった数正に、秀吉が好条件で誘いをかけたという流れもあり得るように思います。

文禄2年(1593)、数正没。享年61。ちなみに山岡荘八の小説『徳川家康』などでは、数正は羽柴家内部から徳川家に有利な外交を誘導するため、あえて出奔したことになっています。

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