「甲斐」が家康の天下取りを支えた? 戦国最強・武田軍と徳川の深い関係
「甲斐」が家康の天下取りを支えた? 戦国最強・武田軍と徳川の深い関係
右左口宿の観音堂から 甲府盆地を望む 徳川家康が甲斐平定のために布陣した地、家康や徳川家と縁のある寺、徳川家と戦国最強・武田軍団とのつながりを感じさせる場所...。山梨県といえば武田家だが、家康に注目して訪...
歴史街道 » #武田信玄の記事一覧
右左口宿の観音堂から 甲府盆地を望む 徳川家康が甲斐平定のために布陣した地、家康や徳川家と縁のある寺、徳川家と戦国最強・武田軍団とのつながりを感じさせる場所...。山梨県といえば武田家だが、家康に注目して訪...
「車懸りの陣」といえば上杉謙信が得意とする戦法として有名である。事実、この戦法により川中島の合戦で武田信玄は窮地に追い込まれている。しかし、この戦法を編み出したのは謙信ではなく北信濃の雄・村上義清だったと...
甲斐の虎起つ! 元亀3年(1572)9月、武田信玄は三河、遠江に侵攻した。世にいう西上作戦である。しかし、この作戦は上洛を目的としたものだったのか。その時、織田信長、上杉謙信はどう行動したのか。歴史家の乃至政彦...
天正18年(1590)、豊臣秀吉の大軍が小田原城を包囲した。関東各地にある北条方の城が次々と落ちるなか、10倍以上の敵を相手に、3ケ月の間、戦い抜いた男がいる。伊豆・韮山城の北条氏規──。その見事な戦さぶりと、数奇な...
2021年は武田信玄生誕500年。戦国武田家の歴史を再検証する動きが多くみられるが、この記事では武田家が滅亡した瞬間について取り上げたい。日本を代表する戦国武田氏の研究者が、木曾義昌や穴山梅雪に裏切られて窮地に追...
武田信虎・信玄・勝頼の戦国武田三代には、強烈な源氏意識があったという。その源氏名門としての誇りと、足利将軍家への絶対的な忠誠を行動原理にして、武田家は織田信長との戦いに身を投じていくことになる――。 ※...
主家の盛衰、父からの影響、豊臣秀吉による引き立て、そして関ケ原での活躍と敗戦……。 戦国最強と称される立花宗茂と真田信繁(幸村)は、実は共通点が多い。 彼らの生き方が、現代人に問いか...
岩村城跡に残る石垣。岩村城は明治維新後に廃城とされるまで存続していた(岐阜県恵那市) 浅井・朝倉や本願寺との戦いで、時に敗れ、時に絶体絶命の窮地に陥ったこともあったが、織田信長はそれ以外でも、数多くの戦...
日本史上の人物の異名に驚きを感じることはあまりないですが、世界史上の人物の異名の中には、なかなか日本人の感覚では付けられない、非常にユニークなものがあります。 「異名」がかっこいい歴史上の人...
「守備の天才」ということで、プロ野球選手にも予想以上に票が集まりましたが、今回は現代を「歴史」には入れないことといたしました。申し訳ございません! 過去の「日本史において活躍した外国人」「特集で取り上げて...
戦国武将イメージの「通説」は江戸時代以降に作られたものが多い。鈴木眞哉著『「まさか!」の戦国武将 人気・不人気の意外な真相』(PHP文庫)では、名将たちの意外な評価を解き明かしているが、ここでは本書より、...
大河ドラマ「麒麟がくる」によって、足利義輝と松永久秀に対する注目が高まっている。月刊誌『歴史街道』2020年7月号でも、「足利義輝と松永久秀―『剣豪将軍』と『梟雄』の正体」と題し、最新研究を踏まえて二人の実像に...
一乗谷朝倉氏遺跡復元町並で展示されている一乗谷のジオラマ(写真:近戸秀夫) 《越前の戦国大名・朝倉氏というと、「朝倉義景は凡庸だった」というイメージで語られることがある。しかし、果たしてそうした見方は正...
前々回の「社長になってもらいたい人物」、前回の「歴史好きになったきっかけの人物」に引き続き、今回のお題でも、「あの二人」が1位と2位にランクイン! 脇本陣史上、3連続で上位2位の顔ぶれが変わらなかったのは...
武田信虎は、暴君だった? 武田信虎は、暴君だったがゆえに、息子の信玄からクーデターを起こされたと言われる。 しかし、信虎の存在なくして、信玄の活躍を語ることはできない。 というのも...
松永久秀の居城となった信貴山城跡 (奈良県生駒郡平群町) 織田信長ほど、家臣に裏切られ続けた武将も珍しい。しかし明智光秀以外の裏切りは、いずれも失敗に終わっている。それは、なぜなのか──。信長を裏切り、...
三河武士団は、家康に心服していなかった! 武田信玄が侵攻してきた三方原の戦いで、いったいなぜ徳川家康は負けることを承知で浜松城から出撃したのだろうか―。 巷説では、同盟者の信長に対す...
今月のお題は「戦国における『最強の父親』といえば?」です。 編集部としては、「武力」においての最強の父親が上位を占めるかと予想していましたが、蓋を開けてみると、なんとも意外な人物が第一位に…。そ...
武田家と真田家。天文15年(1546)頃に武田信玄のもとへ真田幸綱が出仕して以来、ともに乱世を歩んできた両家だが、織田信長の侵攻とともに、別々の道を歩むこととなる。 天正10年(1582)3月3日、真田昌幸による...
白石城三階櫓(宮城県白石市) 白石城は別名、益岡城、桝岡城。仙台藩の南の要衝に位置し、関ヶ原の戦いの後、明治維新までの260余年、伊達家の重臣片倉氏の居城であった。 ご学友型ナンバー2 ...
臨済寺(静岡市) 駿河の戦国大名・今川家の菩提寺で太原雪斎が中興。今川館(現在の駿府城)北西の賤機山麓に位置する。徳川家康も竹千代時代にここで学んだ。 今川義元の後見人となる 太原雪斎...
学校では教えてくれない日本史の授業 山本勘助と真田幸村といえば時代劇のスターといってもよいでしょうが、実はこの二人、日本の歴史学の上では厄介者扱いなのです。 山本勘助、つまり武田信玄の「軍師」と...
川中島での上杉謙信「単騎乗り込み」は本当だ! 第四回川中島の戦いでは、上杉謙信は集められるだけの兵を集め、決死の覚悟で臨んでいます。その数1万3000。対する信玄は、総勢2万の兵で迎え撃ったと言...
今日は何の日 天正3年5月21日 馬場信春、長篠設楽原の戦いで討死 天正3年5月21日(1575年6月29日)、長篠設楽原の戦いが行なわれ、武田勝頼軍が織田信長・徳川家康連合軍に敗れました。山県昌景、馬場...
旧秀隣寺庭園(滋賀県高島市朽木・興聖寺) 足利義晴が朽木稙綱を頼って身を寄せた時に、稙綱が義晴のために造営した岩神館の庭園。 今日は何の日 天文19年5月4日 室町幕府12代将軍・足利義晴が没 ...
野田城を攻城中に重態に陥った武田信玄。その終焉地の謎に迫る! 遠江の三方原の戦いに勝利した後、野田城を攻城中に重態に陥った武田信玄が、伊那街道から三州街道を経て本国の甲斐に引き揚げる道すがら...
今日は何の日〜慶長20年3月14日、奥平信昌が没 慶長20年3月14日(1615年4月11日)、奥平信昌が没しました。長篠の合戦の折、長篠城の城主として、武田軍の猛攻の前に城を死守した武将として知られます。 ...
村上義清が生まれる 今日は何の日 文亀元年3月11日 文亀元年3月11日(1501年3月29日)、村上義清が生まれました。武田信玄(晴信)を二度破った武将として知られます。 北信濃の武将・村上顕国...
織田軍の残党狩りにより、武田信廉が討死 今日は何の日 天正10年3月7日 天正10年3月7日(1582年3月30日)、武田信廉が織田軍の残党狩りで討たれました。武田信玄の弟で、逍遥軒(しょうようけん)の号...
武田神社(山梨県甲府市) 甲斐の猛虎・武田信虎が没―今日は何の日 天正2年3月5日 武田信虎、甲斐国を掌握 天正2年3月5日(1574年3月27日)、武田信虎が没しました。武田信玄の父親で、甲斐の猛...
上田原の合戦で板垣信方が討死 今日は何の日 天文17年2月14日 天文17年2月14日(1548年3月23日)、上田原の合戦で板垣信方が討死しました。若い頃の武田信玄を支えた重臣として知られます。 ...
蒲生氏郷が没 今日は何の日 文禄4年2月7日 文禄4年2月7日(1595年3月17日)、蒲生氏郷が没しました。織田信長の娘婿で、豊臣秀吉にも重んじられ、利休七哲の一人に数えられる茶人としても知られます...
足利義昭が挙兵。信長包囲網を画策す 今日は何の日 元亀4年1月30日 元亀4年1月30日(1573年3月3日)、将軍足利義昭が織田信長討伐のために挙兵しました。信長包囲網が形成され、西上する武田信玄が...
「鬼美濃」こと原虎胤が没 今日は何の日 永禄7年1月28日 永禄7年1月28日(1564年3月11日)、原虎胤が没しました。「10度の戦があれば11度の功名をあげる」と賞賛され、「鬼美濃」の異名でも恐れられ...
悔しともうら山し共思はねど……今川氏真が没 今日は何の日 慶長19年12月28日 慶長19年12月28日(1614年1月27日)、今川氏真が没しました。今川義元の息子で、父の死後、武田信玄と徳川...
三方ヶ原の合戦、家康は恐怖のあまり脱糞? 今日は何の日 元亀3年12月22日 元亀3年12月22日(1573年1月25日)、三方ヶ原の合戦が起こりました。武田信玄の西上作戦の一環で行なわれた戦いで、徳川家...
土津神社 保科正之墓所(福島県猪苗代町) 会津藩祖・保科正之が没 今日は何の日 寛文12年12月18日 寛文12年12月18日(1673年2月4日)、保科正之が没しました。会津藩祖で、4代将軍家綱を補佐し...
戦国武将をモデルにしたリーダー論がよく語られますが、一般的には優れたリーダーとされる武将であっても、自分と相性が悪そうであれば、その下で働きたいとは思わないでしょう。ということで、今回のアンケートでは、家...
今日は何の日 永禄4年9月10日 第四次川中島の戦いで山本勘助が討死 永禄4年9月10日(1561年10月18日)、第四次川中島の戦いにおける八幡原の戦いが行なわれました。戦国最強と呼ばれた武田軍と上杉軍の激突として...
今日は何の日 天文20年5月26日 真田幸隆が戸石城を攻略 天文20(1551)年5月26日、真田幸隆(幸綱とも)が戸石城を攻略しました。幸隆は武田信玄配下の智将で、真田昌幸の父親、真田信幸・信繁兄弟の祖父と...
更新:11月21日 00:05