2018年05月04日 公開
2022年08月01日 更新
旧秀隣寺庭園(滋賀県高島市朽木・興聖寺)
足利義晴が朽木稙綱を頼って身を寄せた時に、稙綱が義晴のために造営した岩神館の庭園。
天文19年5月4日(1550年5月20日)、足利義晴が没しました。室町幕府12代将軍で、徧諱を多くの戦国武将に与えたことでも知られます。
足利義晴は永正8年(1511)、11代将軍足利義澄の長男として近江国岡山城(近江八幡市)に生まれました。幼名、亀王丸。母親は日野富子の姪にあたります。
義晴が近江で生まれたのは、父・義澄が永正6年(1509)、大内氏の軍事力を背景に将軍位への復職を狙う10代将軍足利義稙(義材、義尹)に追われ、近江の六角高頼を頼って都を落ちていたためです。しかし義澄は義晴誕生からほどなく病没しました。足利義稙が将軍に復職すると、義晴は播磨の守護・赤松義村の庇護下で成長します。
大永元年(1521)、管領・細川高国と対立した将軍義稙が出奔すると、11歳の義晴は代わりの将軍を求めた高国に招かれ、元服の上、12代将軍に補されました。
大永5年(1525)、義晴は北室町柳原に幕府を造営しますが、翌年、細川家に内訌が起こり、大永7年(1527)の桂川の戦いで高国が細川晴元、三好元長らに大敗を喫しました。細川晴元らが入京すると、高国は義晴とともに近江に落ちます。
義晴が朽木稙綱を頼ったのは享禄元年(1528)のことで、義晴18歳。細川晴元らは義晴の異母弟・義維を担ぎ、義維が次期将軍と認められたため、義維のいる堺が堺幕府、義維は堺公方などと称されることになります。
しかし天文元年(1532)、細川晴元と対立した三好元長が落命し、後見役の三好を失った義維が阿波に落去する中、義晴は近江観音寺山麓の桑実寺に幕府を移しました。
そして細川晴元と和解した天文3年(1534)、義晴はようやく京都に帰ります。義晴24歳でした。その後も義晴は、細川晴元と対立しては敗れて近江に落ち、和解して帰京することを繰り返します。軍事的実力のない将軍の悲しさでしょう。その後、細川晴元の家宰・三好長慶が台頭し始めます。
天文15年(1546)、義晴は細川晴元排斥を計画して起ちますが、三好長慶とその兄弟の軍事力に敗れ、近江坂本に落ちました。この時、嫡男・義輝を元服させて将軍職を譲り、自らは大御所として13代将軍義輝を後見します。ほどなく義晴・義輝親子は帰京しますが、翌年にも同様に細川晴元と対立して近江に落ち、また和解して帰京しました。
天文18年(1549)、細川晴元と家臣の三好長慶が対立すると、義晴は晴元を支持します。しかし晴元と長慶が衝突した江口の戦いで晴元は敗北、義晴・義輝は晴元とともに近江朽木に逃れました。
その後も義晴は東山の如意ケ岳付近に中尾城と呼ばれる城郭を築き、京都奪還を窺いますが、次第に病が重くなり、天文19年(1550)に近江の穴太で没しました。享年40。
滋賀県高島市朽木には旧秀隣寺庭園があります。将軍足利義晴が朽木稙綱を頼って身を寄せた時に、稙綱が義晴のために造営した岩神館の庭園です。池泉と石組が見事な庭園ですが、都を追われた義晴はどんな思いでこの庭を見ていたのでしょうか。
ちなみに義晴が徧諱を与えた主な人物には、細川晴元、尼子晴久、有馬晴純、大友義鑑、大友義鎮、島津晴久、武田晴信、伊達晴宗、長尾晴景、南部晴政、朽木晴綱らがいます。
更新:11月21日 00:05