天文5年3月10日(1536年3月31日)、足利義輝が生まれました。室町幕府第13代将軍で「剣豪将軍」としても知られます。
足利義輝の父は12代将軍義晴ですが、当時の足利将軍家は管領の細川晴元と対立し、義晴はしばしば京を追われて近江に逃げていました。義輝は11歳で将軍職を譲られますが、その就任式も近江で行なわれています。
やがて晴元と和睦して京に戻ったのもつかの間、今度は晴元の重臣の三好長慶が、晴元を仇敵とする細川氏綱を擁して晴元軍を破って入京すると、晴元とともに義晴・義輝父子もまた近江に逃げることになりました。
天文21年(1552)、細川氏綱を管領にすることを条件に、将軍義輝は京に戻りますが、幕府の実権は将軍義輝でも管領氏綱でもなく、三好長慶とその家宰・松永久秀が握ります。この事態に義輝は翌年、細川晴元とともに三好に戦いを挑みますが、敗れて再び近江に逃れ、朽木谷で5年を過ごしました。
永禄元年(1558)、近江の六角義賢(承禎)の仲介で三好長慶と和議を結んだ義輝は、ようやく京に戻り、三好長慶を御相伴衆として幕臣に組み込み、幕府政治を再開します。しかし義輝は、お飾りの傀儡であることをよしとしませんでした。戦国時代真っ只中の当時、諸国で起きている大名間の争いを自ら調停し、将軍の威信を大名たちに知らしめたのです。毛利元就と尼子晴久、武田晴信と長尾景虎、島津貴久と大友義鎮などがそうで、また自らの名「輝」の一字を偏諱として上杉輝虎(謙信)、伊達輝宗らに与えました。輝虎や織田信長は、義輝に拝謁するためにわざわざ上洛までしています。
一方で義輝は、当時確立されつつあった剣術を熱心に学び、塚原卜伝や上泉伊勢守から直接指導を受け、一説に卜伝からは鹿島新当流の奥義「一の太刀」を授かったといわれます。
永禄7年(1564)に三好長慶が没すると、義輝はこの機にさらに幕府権力を高めようと図りますが、それは長慶に代わり実権を握ろうとする松永久秀らにとって「邪魔」でした。翌永禄8年、松永は義輝の従兄弟・義栄を新将軍の候補に立て、三好三人衆とともに軍を率いて義輝の住まう二条御所を襲いました。義輝は臆することなく、足利家に伝わる名刀を何本も縁に刺し、刀を取り替えつつ敵兵を次々に斬り倒す奮戦をしたといわれます。
しかし多勢に無勢、ついに討死しました。享年30。辞世の句は、 「五月雨は 露か涙か 不如帰 わが名をあげよ 雲の上まで」 。宮本昌孝さんの小説『剣豪将軍義輝』では、実に爽やかな義輝が描かれています。
更新:11月24日 00:05