2017年08月28日 公開
2023年03月09日 更新
慶長2年8月28日(1597年10月9日)、足利義昭が没しました。足利15代将軍で、信長包囲網を築くなど、戦国の世に積極的に関与したことで知られます。
「や? あれは前公方ではないのか?」
朝鮮出兵のため肥前名護屋城に向かう豊臣秀吉のきらびやかな軍勢が出立する際、見送りに来た公卿たちは、秀吉の傍らに前将軍・足利義昭が従っているのを見て、驚いたといいます。
義昭は天文6年(1537)、12代将軍・義晴の次男に生まれました。兄は13代将軍となる義輝です。天文11年(1542)、6歳で仏門に入り、興福寺一乗院門跡の覚慶と称しました。しかし永禄8年(1565)、兄の義輝が松永久秀らによって殺され、覚慶も松永の手で幽閉されますが、義輝の側近であった細川藤孝や三淵藤英らに救出され、翌年、還俗して足利義秋と名乗ります。その後、各地を転々とした末に織田信長の支援を得て、永禄11年(1568)、名を義昭と改め、信長に守られて京都に入ると15代将軍に就任しました。
翌永禄12年には将軍御所である烏丸中御門弟(旧二条城)も完成して、室町幕府奉公衆や守護家も参上、義昭のもとで足利幕府は機能を回復します。しかし、初めのうちこそ良好であった信長との関係は、天下布武を目指す信長が義昭の権力を制限するに及んで(「殿中御掟」9箇条)、対立を生じました。義昭は上杉輝虎、武田信玄、本願寺顕如、毛利輝元ら各地の有力武将に御内書を送って、いわゆる「信長包囲網」の構築を始めます。
足利義昭が挙兵し、立て籠もった槇島城跡の記念碑(京都府宇治市)
元亀3年(1572)10月、武田信玄が上洛戦を開始し、12月の三方ケ原の戦いで徳川家康を一蹴、信長は窮地に陥りました。翌年正月、信長は義昭に和睦を申し入れますが、義昭は拒否。ここに両者は完全に敵対するに至ります。しかし、信玄が上洛途上で病没したことで形勢は一転し、包囲網は崩れ、4月には朝廷の命による信長と義昭の講和が成立しました。が、義昭は収まりがつかず、7月に南山城の槇島城で挙兵したものの織田の大軍に包囲されて降伏、信長は義昭を京都より追放します。
歴史的にはこの時点で、室町幕府は滅亡したとされます。しかし、義昭は依然、征夷大将軍であり続けました。その後、河内、紀州と転々とした義昭は、天正4年(1576)に毛利輝元の勢力下にある備後の鞆に腰を落ち着け、足利幕府を支持する勢力もまだ少なくないことから、再び御内書を発しています。しかし、信長打倒において最も義昭が期待したであろう上杉謙信も天正5年(1577)に没し、天正8年には石山本願寺も信長に降伏しました。もはや包囲網も築けなくなった義昭が最後に打った手、それが旧臣の明智光秀に命じた本能寺の変であったという説もありますが、果たしてどうなのでしょうか。信長が斃れても、義昭が望んでいたにもかかわらず、将軍として京都に返り咲くことはありませんでした。
天正15年(1587)、九州征伐に赴く途上、豊臣秀吉は備後で義昭と対面します。そして翌年、義昭は秀吉に京都帰還を許され、将軍職を辞任して出家し、昌山と名乗りました。秀吉からは因縁のある槇島1万石を与えられ、朝鮮出兵の際には、秀吉の要請に応えて手勢を率いて出陣しています。晩年は旧守護家とともに秀吉の御伽衆となりました。
慶長2年(1597)、大坂で病没。享年61。数奇な運命といってしまえばそれまでですが、武家の棟梁の足利氏が織田信長、関白秀吉にとって代わられ、さらに関ケ原を見ることなく世を去ったのは、あたかも中世から近世へと時代のバトンを手渡したかのようにも見えます。
更新:11月22日 00:05