2018年02月06日 公開
2022年08月01日 更新
文禄4年2月7日(1595年3月17日)、蒲生氏郷が没しました。織田信長の娘婿で、豊臣秀吉にも重んじられ、利休七哲の一人に数えられる茶人としても知られます。今回は『名将言行録』の中から、蒲生氏郷の逸話をいくつか紹介してみます。
氏郷は、六角氏の家臣で近江日野城主の蒲生賢秀の息子に生まれました。賢秀が信長に降ると、13歳の氏郷は人質として岐阜城の信長のもとに送られます。次の話はそれから間もなくのものでしょう。信長の前で、何度か武辺話が語られた折、13歳の氏郷もいつも同席し、話が深夜に及んでもいささかも疲れた様子も見せず、話す者の口元を見ながら耳を傾けていました。その様子を見た稲葉貞通は、「蒲生の息子は尋常の者ではない。いずれひとかどの武将となるであろう」と語ったといいます。
次は氏郷が16歳の時の話です。 織田金左衛門尉という者が名馬を所有しており、多くの者が欲しがりました。 金左衛門尉は、「進呈しても構わぬが、ただし戦の時に一番に敵陣に斬り込んで、高名を上げてみせるという方に限る」と言うと、皆が口をつぐみました。そんな中で氏郷は、次の陣で高名を上げてみせると約束し、名馬を譲り受けます。それから10日ほど経ち、甲斐の武田晴信の軍が東美濃に侵攻して、焼き働きを行ないました。すると氏郷はかの名馬に乗って先陣に進み、武田軍から斥候に出た武者を引き落として、首級をとり、高名を上げます。そして信長の前に進み、織田金左衛門尉にも約束通り高名を上げたぞと首を見せました。信長をはじめ皆が感じ入ったといいます。
次は35歳の小田原の陣での話。 氏郷の陣に、小田原城から北条方が夜襲をかけてきました。先陣の者たちがこれに対応しているのを横目に、氏郷は槍を引っ提げて敵勢の背後に回ると、槍で次々に突き倒して大いに働きます。 敵は背後の氏郷に慌てて退却しようとしますが、氏郷一人に突き立てられて、次々と堀に飛び込む始末。それを見て氏郷の家臣らも先を争って敵の首を獲りました。これを聞いた秀吉は「氏郷の働きは珍しいことではないが、今夜のように夜討ちの敵の背後に一人で回り、敵の首を多数上げるのはなまなかな気迫ではない。古今稀なる働きというべきだろう」と称賛したといいます。
武勇伝の多い氏郷ですが、家臣たちを大切にしたことでも知られます。加増で会津120万石を賜った時、氏郷が自ら家臣らに配分し、本来一万石の者に二万石、三万石と増やして与えたところ、120万石でも不足し、氏郷の取り分がなくなってしまいました。 老臣たちが「殿のお心はありがたきことなれど、これでは軍役もおぼつきませぬ」と訴えると、ならばお前たちが配分し直せと言います。老臣たちが事の次第を、家臣を集めて話すと、「わが主君は一万石の者には二万石を与えようとしてくれていたのか」と家臣たちは氏郷の志に感激したといいます。
佐久間久右衛門と同安次という者が氏郷に初めて拝謁した時、畳のへりに躓いて転倒してしまいました。これに小姓たちが目配せして笑うのを見た氏郷は怒り、「お前たちはいまだ物をわきまえぬゆえ笑うのだ。佐久間らはお前たちのような畳の上の奉公人ではない。戦場こそが彼らの奉公場所である。自分たちをもって相手を量るのは、心得違いというものぞ」と叱ったといいます。
氏郷は家臣を饗応する際には、自ら頭を手ぬぐいに包み、煤だらけになりながら風呂を沸かしてもてなしました。そんな氏郷は、諸隊を率いる部将たちには常々こう言って戒めました。主将として麾下を戦場で働かせるにおいては、ただ「掛かれ、掛かれ」と命じても、組下の者は攻めかかるものではない。 敵に攻めかけさせたいのであれば、主将自ら先に進み、「こちらへ参れ」と言うのだ。そうすれば、主将を見捨てるような組下はいない。くれぐれも組下の後ろから掛け声だけをあげるような将であってはならない。
「指揮官先頭」を地でいく氏郷の言葉です。戦場での命のやりとりを幾度も経て、その機微を知るからこその氏郷の言葉かもしれません。
更新:11月23日 00:05