2017年06月23日 公開
2022年08月09日 更新
永禄5年6月24日(1562年7月25日)、加藤清正が尾張国中村(現在の名古屋市中村区)に生まれました。豊臣秀吉子飼いの家臣で、賤ヶ岳七本槍の一人。秀吉没後は徳川家康に臣従しながら、豊臣秀頼と豊臣家を守ろうとしました。また、熊本城をはじめとする築城の名手としても知られます。
清正は朝鮮出兵での活躍や、朝鮮出兵後の豊臣政権内の武断派と文治派の対立で福島正則と並ぶ武断派の筆頭とされたことや、虎退治の伝説などから、清正には豪傑、猛将のイメージがありますが、何より信義を重んじる人物でした。今回は、そんな清正のエピソードをいくつかご紹介しましょう。
文禄の役において、清正は咸鏡道(ハムギョンド)の会寧(フェリョン)で朝鮮の二王子を捕らえます。その際、重臣、女官、従卒まで200人も一緒でした。しかし清正はすぐに彼らの縛を解き、二王子に対し「日本は仁義の国であるので、降伏した者には決して危害を加えない」と明言、実際に王子らを礼遇します。後に明との講和から二王子が解放される際、王子らは「清正の慈悲深さは仏のようだ」と記した書を贈ったほどでした。王子の小侍郎であった金官(良甫鑑・リャンポカム)は、自軍に厳しい軍律を課して略奪を許さない清正を信頼し、自ら望んで清正とともに日本に渡り、生涯、清正に近侍します。清正も金官の会計能力を重んじ、200石を与えました。清正の死後、金官は殉死しています。
慶長の役の折、浅野左京(長慶)らの籠る蔚山(ウルサン)城が明・朝鮮連合軍に包囲されました。別の城にいた清正は「わしは日本を発つ時、左京の父(浅野長政)より、左京を頼むと託された。今、左京を討たせては武士の一分が立たぬ」と蔚山城に急行し、ともに籠城します。しかし水の手を断たれ、食糧は枯渇。壁土を煮て、牛馬を食い、自分の小便を飲まねばならないほどの飢餓に襲われます。それでも清正は弱音を吐かず、大将にだけ配られた一膳飯を箸の先に5、6粒ずつ米をつけて将兵に分け与え、「必ず援軍が来る」と励まし続けました。清正の言葉通り、やがて毛利秀元軍が到着して敵を撃退、籠城戦は実を結び、苦しい時にたえず激励してくれた清正に、将兵たちは感謝の涙を流したといいます。 熊本では今も清正のことを「清正公(せいしょこ)さん」と呼んで慕っています。
朝鮮出兵では、こんな逸話もあります。清正は全州(チョルジュ)の城を発って、釜山へ南下しました。途中は日本軍の制圧下にあり、敵襲を受ける心配はありません。 清正は密陽(ミリャン)の城に宿泊する予定であったので、密陽の守将・戸田勝隆は迎えに出ました。戸田は清正と親しく、敵の急襲の心配も全くなかったので平服姿でしたが、やってきた清正の将兵の姿に驚きます。 彼らは「南無妙法蓮華経」と大書した旗を先頭に押し立て、多くの旗指物をなびかせ、500挺の鉄砲の火縄に火をつけ、清正はじめ全員が即座に戦闘可能な完全武装であったのです。 歓迎の準備を整えていた戸田勝隆もさすがに呆れ、「十里も二十里もの間、敵はいないのに、これはまた」と言うと、清正は「身軽にしたいのは山々なれど、とかく大事は油断から起こるもの。万一、急変にあえば、これまでの用心も無駄になる。 まして配下はただでさえ油断しがちであり、わしが武装を解けば、大いに気を緩めて帯紐まで解いてしまうであろう。それゆえわしは常に武装は解かぬ。己を叱咤して、家臣を油断させぬようにしておるのじゃ」と応えました。「常在戦場」の心構えというべきでしょう。
なお、清正は、自分の屋敷の夫人の部屋にいる時でも、常に刀を手放しませんでした。老女の一人が、「奥に入られた時は、お気遣いは無用と存じますが」と言うと、清正は「外にいる時は、わしを守ってくれる家臣がいるので裸でも気遣いないが、奥は女ばかりゆえ、自ら用心するのよ」と応えています。 これを聞いた家臣たちは、感激したといいます。
関ケ原の合戦後、肥後54万石の大名となった清正は、熊本城を築き、城下町や街道を整備し、治水・灌漑事業を推進しました。特に領民が感謝したのが、農産物の増産に直結する治水・灌漑事業です。暴れ川の白川を制御して熊本城の外堀として活用し、また「鼻ぐり井出」という土木施設を考案、井出(灌漑用水路)を壁で仕切る構造にして、壁の底に穴を開けて水の流れを速めて土砂の堆積を防ぎました。この「鼻ぐり井出」は現在も24基が現役で稼動しています。また「コルマメ」と呼ばれる干し納豆も清正の発案といわれます。食糧不足に苦しんだ朝鮮の陣で、馬の餌用の大豆に塩を振りかけたところ、ねばねばして食用となったので、「高麗」と豆をかけて、「コルマメ」と呼び、後に食用として熊本に広まりました。
慶長16年3月、京都に入った徳川家康は、豊臣秀頼に会いに来るよう申し伝えます。 この誘いを拒めば、家康は大坂攻めの口実にしかねないことを案じた清正は、浅野幸長、福島正則と相談し、清正と浅野がつききりで守衛することで、家康との対面を果たすことにしました。 まず福島正則が病と称して、大坂城に入ります。もし、秀頼、清正の身に異変があれば、城を守り一戦する手筈でした。正則に後備を任せて、清正と浅野が秀頼を守って伏見城に入りました。伏見城には300の兵を置きます。
そして会見の場である家康のいる二条城まで、秀頼の駕籠の両脇に清正と浅野が徒歩でつきそいました。行列の足軽、中間の役も皆、士分が務めます。さらに京都市中を、清正の家臣200人が数組に分かれて巡回し、治安警備にあたりました。 二条城での対面は短いもので、秀頼は儀礼的に家康の健康を祝し、家康も一言、成長を祝っただけといわれます。しかし19歳の秀頼の成長ぶりに家康は心中危惧し、この時に豊臣を潰す決意を固めたとされます。 家康との会見の場に、刀は持って入れませんが、清正は懐に密かに短刀をのんでいました。万一の時には、家康と刺し違える覚悟で、秀頼に付き添っていたのです。
この日、家康は清正の労をねぎらって、引き出物として大刀を与えましたが、拝領する時、清正の目は家康を見ず、別の方角を望んでいる様子でした。不審に思った家康は、清正が目を向けていた方角に愛宕山があることに気づきます。 調べさせると、果たして清正は秀頼の無事を祈願する祈祷を、愛宕山の修験者たちに行なわせていたことがわかりました。これには家康も、感心したといいます。
二条城での秀頼の家康との対面と、秀頼の大坂城帰還を見届けると、清正は大坂を発って、肥後へと向かいますが、途中の船内で発病し、回復しないまま熊本に到着したものの、まもなく没しました。享年50(52とも)。奇しくも生まれた人亡くなった日は同じ6月24日でした。
死因はわかっておらず、遺言といわれるものも格別伝わっていないということです。天下に隠れなき武人であり、領国経営に心を砕いた清正は、豊臣家への忠誠心を最後まで失わない、気骨ある男でした。
更新:12月10日 00:05