2017年05月21日 公開
2022年08月09日 更新
寛永9年5月22日(1632年7月9日)、加藤忠広が幕府より改易を命じられ、父・清正から受け継いだ肥後熊本藩を失いました。幕府に警戒されたためともいわれます。
加藤忠広は慶長6年(1601)、加藤清正の3男に生まれました。幼名、虎藤。2人の兄が早世したため、世子となります。慶長16年(1611)6月、父・清正が没した時、11歳の忠広は江戸にいました。若年を理由に幕府から国替えを命じられる可能性もありましたが、家臣たちが奔走して幕府に相続を働きかけた甲斐もあり、襲封を認められます。
忠広は9月に熊本に入り、重臣たちは5人を家老に任命して、幼い主君を補佐するために家老合議制をとることにしました。 なお忠広の熊本入りには、幕府の命令で藤堂高虎が目付として同行しています。その真の理由は清正が築いた熊本城について、やはり築城名人として知られる高虎の目で情報収集させるためであったといわれます。
慶長18年(1613)2月、13歳の忠広は将軍徳川秀忠より一字を賜り、忠広と名乗ることになります。翌年、秀忠の養女・琴姫を娶り、家康の養女を継室に迎えた父と同様、将軍家の縁者として遇せられることになりました。
慶長19年(1614)に熊本藩は大坂冬の陣に出陣しますが、夏の陣にも動員されたのかは詳らかではありません。一説に冬の陣の折、重臣たちの中に豊臣秀頼に同情する動きがあったため、幕府が警戒したともいわれます。
元和4年(1618)、加藤家内部で対立していた二つの派閥のうち、加藤右馬允派が加藤美作派に謀叛の企みと幕府に訴え、内紛が公となりました。両派の争いは幕閣では収まりがつかず、結局、将軍秀忠が直接裁くことになります。そして加藤右馬允派の勝利となり、美作派は全員、流罪か断罪となりました。この時、忠広に累が及ばなかったのは、将軍の養女を娶っていたためといわれます。
しかし寛永9年(1632)、大御所秀忠が没し、将軍家光の治世になると、忠広の立場はたちまち危ういものとなりました。というのも、家光が嫌っていた弟・忠長と忠広が懇意にしていたためです。そして同年5月22日、江戸参府途上で忠広は幕府より入府を差し止められた上、改易を宣告されました。肥後熊本藩54万石は没収、忠広は出羽庄内の酒井家にお預けとなります。
改易の理由は「平素の行跡正しからず」。 具体的には忠広の家臣統制が不十分であること、駿河大納言忠長と懇意であったこと、忠長を将軍にしようという文書が諸大名に送られ、各大名家が幕府に報告する中、加藤家だけ報告がなかった、などの説があります。 いずれにせよ、幕府にすれば目の上のたんこぶともいうべき加藤家を、容赦なく取り除いたということなのでしょう。
その後、忠広は出羽丸岡に一代限り、1万石の所領を与えられ、20人ほどの家臣とともに、丸岡で22年間を送りました。和歌や音曲に親しむなど、悠々自適の生活であったようです。 承応2年(1653)、没。享年53。忠広の心中は、どんなものであったのでしょうか。
更新:11月23日 00:05