2017年04月25日 公開
2022年03月15日 更新
寛文2年4月25日(1662年6月11日)、徳川6代将軍・家宣が生まれました。知名度はさほど高くありませんが、徳川将軍の中でも名君といわれます。
父親は3代将軍家光の3男で、4代将軍家綱の弟、5代将軍綱吉の兄にあたる甲府宰相こと甲府藩主・徳川綱重。従って家宣は家光の孫ということになります。もっとも家宣は長男ながら、父・綱重が正室を娶る前に、側に仕える女性に産ませた子であったため、世間体から家臣の新見正信の養子となり、新見左近と名乗っていました。しかしその後、男子に恵まれなかった綱重が9歳の家宣を呼び戻し、元服させて綱豊と名乗らせます。
延宝6年(1678)に父・綱重が死去すると、家宣は17歳で家督を相続、甲府藩主となりました。 2年後の延宝8年(1680)、4代将軍家綱が重体となると、家綱の弟・館林藩主の綱吉とともに、家宣は5代将軍の候補となります。しかし、この時は綱吉がより先代の家光に血が近いということで、家宣の就任はなりませんでした。もしこの時、家宣が将軍となっていたら、歴史はまた大きく変わっていたことでしょう。
その後、5代将軍綱吉も世子に恵まれず、水戸藩主・徳川光圀は次期将軍に家宣を強く推したといわれますが、綱吉の娘婿で紀州藩主・徳川綱教も後継候補であったため、家宣が正式に世継ぎとして江戸城西の丸に入ったのは、紀州綱教が死去した後の宝永元年(1704)、家宣43歳の時でした。5年後の宝永6年(1709)、将軍綱吉が没しますが、その臨終間際、綱吉は家宣を枕元に呼び、悪名高い生類憐みの令を今後100年続けるようにと言います。すると家宣は「私自身は100年後までも守りましょう。しかし天下万民は免除を願わしゅう」と答えたと伝わります。
綱吉没後、家宣は48歳にして6代将軍に就任しました。それに伴い甲府徳川家は廃絶となり、家臣はすべて幕臣に組み込まれます。 将軍就任後すぐに、家宣は生類憐みの令と酒税を廃止したため、庶民に大歓迎されました。生類憐みの令で罪人とされた8千数百人が赦免されたといわれます。また綱吉の側用人・柳沢吉保を罷免し、甲府時代の家臣である間部詮房、新井白石らを登用、文治政治を行ないました。
さらに綱吉時代からの能臣・荻原重秀に財政面で手腕を振るわせます。家宣は役人に賄賂を贈ることを固く禁じ、庶民の政治批判の落書も不問としました。刑罰については「たとえ極悪非道の重罪人であっても、何か酌量してやる点がないか探せ。重罪人を生まないことが、本当の政治なのだ」と語っています。
しかし、家宣は将軍に就任する年齢が遅すぎました。就任後、僅か3年で病に倒れてしまうのです。死因は感冒(インフルエンザ)ともいわれています。息子の鍋松(後の家継)はまだ4歳。家宣は間部詮房を枕元に呼び、「次期将軍を尾張の吉通に譲ろうと思う」と相談します。
間部は驚き、鍋松君にと言うと、「古来、幼君で天下が治まったためしがあろうか。私情を差し挟むべきではない。かような時のために、神君家康公は御三家をもうけたのだ。まずは吉通に継がせ、鍋松が成人した暁に吉通の判断に委ねるか、もしくは吉通を鍋松の後見人として政務を執らせるか」と案を出し、新井白石と相談の上、それでも鍋松を後継とし、譜代がこれを補佐するかたちをと懇願すると、家宣は承知しました。結果的に鍋松は将軍に就任後、8歳で早世してしまうので、家宣の予測性が間部や新井よりも優れていたといえるのかもしれません。
臨終間際、枕元で泣く側近たちに、家宣はこう言ったといいます。
「泣くな、馬鹿者。人が死ぬのは当たり前のことではないか」
享年51。もう少し、活躍させてあげたかった将軍です。
更新:11月22日 00:05