慶長15年6月3日(1610年7月22日)、名古屋城の天守周辺が加藤清正によって築かれました。天守台石垣は、清正の極めて高度な技術によって築かれたことで知られます。
名古屋城は江戸城、大坂城と並ぶ「日本三名城」の一つに数えられます。 戦国の頃、今川方から城を奪った織田信秀が那古野城と命名しました。那古野城は現在の名古屋城の二の丸付近に位置し、織田信長はここで生まれ育ったといわれます。
その後、信長が清須(洲)城に居城を移したため那古野城は廃城となりますが、徳川家康が天下を取ると、慶長14年(1609)、尾張藩主・徳川義直(家康9男)の居城として、新たに名古屋に城を築くことを決め、これを天下普請で行なうこととしました。天下普請とは幕府が公の事業として、全国の諸大名に命じて行なわせる土木工事です。この時は、主に西国大名20家が動員されました。加藤清正、福島正則、浅野幸長、前田利常、黒田長政ら大大名ばかりです。
築城は慶長15年に始まり、6月に礎石が据えつけられました。特に加藤清正は築城の名手といわれるだけあって、本丸の石組みの妙は冴え、「清正石」と呼ばれる巨大石(本丸東門桝形石垣の中にある)は今でも見る者を圧倒します。
各大名は定められた工期を守るだけでなく、他家に遅れぬようにと、幕府の見積もりよりも遥かに多い資金と人数を投入しました。その頃の話として、福島正則が清正に「こうたびたびの手伝いでは、身代が持たぬ」と愚痴をこぼすと、清正は「それほど普請が嫌ならば、国表に帰って戦さ支度でもするがよいぞ」と応え、正則は口をつぐんだといいます。当時の家康と豊臣恩顧の大名の関係をよく示す逸話といえるでしょう。
遠方で切り出された石は、石船と呼ばれる大きな船で海路を熱田まで運びました。そこからの陸路は、修羅と呼ぶ木橇(きぞり)に石を載せ、丸太の上を転がしながら普請場まで何百、何千もの人夫が引いたといわれます。その際、清正は、美しく着飾った小姓とともに大石の上に乗り、綱引きの人々をはやし立て、見物人に酒を振る舞ったと伝えられ、清正の石引きはまるで祭礼のように大いに賑わいました。これは大坂城築城の際の秀吉の故事にならったといわれ、秀吉を慕う清正の思いが伝わってきます。
また伝説として、清正が本丸に井戸を掘らせると、水がずいぶん濁っていました。これでは、万一の時に役に立ちません。祈祷師を呼んで祈らせてみますが、効果はなし。そこで清正は意を決し、家臣に大きな木箱を運ばせます。箱の中には黄金がぎっしりと詰まっていました。清正はその黄金を、惜しげもなく井戸にすべて投じます。すると不思議なことに、濁っていた水が澄みわたるようになりました。その井戸は今も大天守の地階にあり、「黄金水」と名づけられています。
大天守に入るには、まず連結する小天守に入り、橋台を渡るしくみになっていました。大・小天守は戦災で焼失し、現在のものは外観復元ですが、本丸の巽(たつみ)櫓と坤(ひつじ)櫓、御深井(おふけい)丸の清洲櫓は、現存する貴重な建築物です。なお天守台の角積石には、「加藤肥後守内」と、普請に従事した清正家中の名が刻まれているそうです。
更新:11月25日 00:05