2018年01月29日 公開
2022年08月01日 更新
元亀4年1月30日(1573年3月3日)、将軍足利義昭が織田信長討伐のために挙兵しました。信長包囲網が形成され、西上する武田信玄が三方ヶ原の戦いで徳川家康を破った状況を受けてのことです。
永禄11年(1568)10月、信長の後押しによって上洛を果たし、晴れて15代将軍に就任した義昭でしたが、幕府再興を望む義昭と、天下布武を目指す信長との間には、ほどなく埋めがたい溝が生じていきました。
元亀元年(1570)、浅井・朝倉連合軍を姉川の合戦で破った信長でしたが、続く三好三人衆との摂津での戦いの最中に、石山本願寺が挙兵。さらに近江では再び浅井・朝倉勢が比叡山に拠り、さらに伊勢長島一向一揆の蜂起など、対応に忙殺されることになります。この事態に義昭は、翌元亀2年(1571)頃より、越後の上杉謙信、摂津の本願寺顕如、安芸の毛利輝元、近江の六角義賢、そして甲斐の武田信玄らに御内書を下し、関係を強化して信長へ圧力をかけました。これがいわゆる信長包囲網の始まりといわれます。
元亀3年(1572)10月、背後でさまざまに画策する義昭に対して、信長は「十七条の意見書」と呼ばれるものを義昭に提示。御内書を出す際には信長に断り、信長の添え状を一緒にすること、欲深で道理に合わない所行が多いため、下々より「悪御所」と呼ばれていることを反省すべきなど、義昭を厳しく批判するものでした。これに立腹した義昭は、信長が浅井・朝倉への対応や、武田信玄の上洛戦開始などで窮地に陥っていることを幸いに、寵臣の山岡景友を山城国半国守護に任命するなど、独断で将軍の権威を示し、対立姿勢を明らかにします。
この状況下で将軍義昭とあからさまに対立するのは得策でないと考えた信長は、元亀4年正月、義昭が望む人質と誓紙を差出し、将軍を粗略に扱わないことを条件に和睦しようとしますが、義昭は拒絶しました。おそらく前年末の三方ヶ原で武田信玄が大勝し、武田軍が三河まで進んでいることで強気になったのでしょう。義昭は近江の今堅田城と石山の砦に兵を入れ、挙兵に及ぶのです。
しかし、すでに齟齬は起こりつつありました。朝倉義景が降雪を理由に兵を近江から越前に引き上げてしまい、武田信玄は義昭に遺憾の意を示します。義昭も慌てて朝倉に再出兵を命じますが、朝倉は応じず、さらに武田軍も三河から動かなくなります。一方、義昭が兵を入れた近江の城に対し、信長は2月26日に石山の砦、29日に今堅田城を落として義昭方を一掃。その圧倒的な力の差に京童は次のような落首を掲げました。
かぞいろとやしなひ立てし甲斐もなく いたくも花を雨の打つ音
(信長が親のようになって養育した甲斐もなく、いま将軍家の花の御所に激しく雨の打つ音がすることよ)
それでも義昭は信長との対立姿勢をとり続けますが、3月末に信長が上洛する際には、幕府方であった細川藤孝、荒木村重も信長を逢坂の関まで迎え、臣従を誓います。4月3日、知恩院に本陣を置いた信長は、郊外に火を放って威嚇しながら義昭に和睦を勧めますが、義昭は応じません。武田信玄の上洛に望みをかけていたのかもしれませんが、武田軍は信玄の病により、三河から撤退を始めていました。
翌4月4日、業を煮やした信長は、義昭の二条城を包囲した上で上京に放火。ここに至り、義昭も抵抗を諦め、5日に勅命による講和が成立しました。しかし信長も、義昭がこのままおとなしくしているとは思っていなかったようです。案の定、7月の初めに義昭は講和を破棄し、南山城の槇島城で挙兵。これに対し信長は7万もの大軍を動員して義昭を降伏させ、京都より追放しました。 一般的にはこれをもって、室町幕府は事実上滅亡したと考えられています。
更新:11月21日 00:05