2018年02月13日 公開
2022年08月01日 更新
天文17年2月14日(1548年3月23日)、上田原の合戦で板垣信方が討死しました。若い頃の武田信玄を支えた重臣として知られます。
板垣信方は延徳元年(1489、異説あり)、板垣信種(信泰とも)の子に生まれました。板垣氏は甲斐武田氏の支流で、甲斐武田氏の祖・武田信義の三男・板垣兼信を祖とします。
信方は武田信虎に仕え、大永元年(1521)、福島正成を主将とする駿河今川勢が甲斐に侵攻した折には、33歳の信方も飯田河原の戦いに参加。さらに上条河原の戦いでは先鋒を務めて、自軍の数倍の今川勢を撃退しました。なおこの戦いの最中、要害山城で信虎の嫡男・晴信(後の信玄)が生まれています。
その後、武田と今川の和睦に信方は尽力し、和睦が成立すると、信虎はその功績を認めて信方を駿河守に任じました。以後、信方は今川氏との交渉役を務めることになり、後に山本勘助はその縁を伝って、武田家に仕官したともいわれます。
天文4年(1535)、北条と結んだ今川氏輝は、武田との約定を破って甲斐に侵攻。武田は何とか撃退しますが、信虎の怒りは今川との交渉役の信方に向けられます。しかし翌年、今川信輝が没したことで、信虎の怒りも収まりました。そして今川家の家督争い(花倉の乱)が起こると、武田が善徳寺承芳(後の今川義元)を支持し、義元が勝利して家督を継いだことで、武田と今川の関係も好転します。
信虎は長女を義元に嫁がせ、また今川氏の仲介を得て晴信の正室に公家の三条家の娘を迎えるなど、両家の関係は良好となり、甲駿同盟を結ぶに至りました。しかし信虎は度々の外征の軍資金確保のために領民や国人に重い負担をかけ、また諫言した家臣を何人も手討ちにすることが続きます。さらに次男の信繁を偏愛し、嫡男の晴信を廃嫡にする動きも見せました。
天文10年(1541)、晴信は信方や甘利虎泰ら譜代重臣の支持を得た上で、父・信虎を駿河に追放し、武田の家督と甲斐守護職を相続します。以後、信方は甘利虎泰とともに、武田家中の最高職「両職」に任ぜられたといわれます。晴信が最も信頼する重臣だったのでしょう。
天文12年(1543)、信方は諏訪郡代に任ぜられ、上原城に入りました。 その少し前のこととして、若い晴信が気の緩みから遊興や詩会に熱中するのを、手討ちになることも覚悟の上で、「これでは父君・信虎様以上の悪大将」と厳しく諫言した話が伝わります。
天文16年(1547)、晴信が佐久の笠原清繁の志賀城攻めを行なうと、関東管領上杉憲政が西上野衆を笠原の援軍として派遣します。晴信は信方らに別働隊の指揮を任せ、信方は小田井原の戦いで関東管領軍を打ち破りました。このため救援を絶たれた志賀城は落ち、晴信は佐久を平定します。
翌天文17年(1548)、晴信は信濃の村上義清を討つべく小県に出陣。信方は武田先陣として3500を率いました。信方は緒戦で義清方を撃破しますが、一説にそこで首実検を行なっている最中に逆襲を受け、討たれたといわれます。また別の説では、退却する敵を深追いし過ぎて、逆襲を受けて討たれたともいいます。信方、享年60。
この上田原の戦いで甘利虎泰も討死しています。両宿老の死は、晴信にとっては敗戦の大きな代償であったでしょうが、ここから家臣たちの世代交代も進むことになり、晴信にとっても、大切な失敗の教訓となりました。信方は最後に、わが命と引き換えに主君を一つ成長させたといえなくもないのかもしれません。
更新:11月23日 00:05