「車懸りの陣」といえば上杉謙信が得意とする戦法として有名である。事実、この戦法により川中島の合戦で武田信玄は窮地に追い込まれている。しかし、この戦法を編み出したのは謙信ではなく北信濃の雄・村上義清だったという。
※本稿は、乃至政彦著『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
永禄4年(1561)9月10日、信濃北部の川中島で上杉政虎(後の謙信)率いる越軍と武田信玄率いる甲軍が激突した。戦闘の詳細を探る根本史料のひとつは信玄遺臣が初稿を書き、その後継者らが補正加筆した『甲陽軍鑑』(以下『軍鑑』)となろう。ほかに参考とすべき文献として、西国の戦国史を描く『陰徳記』と、謙信の一代記『松隣夜話』を挙げられる。
『陰徳記』の記主は慶長18年(1613)生まれの香川正矩という武士で、そこに川中島合戦の項も見えるが、近世の戦国軍記では最初期の川中島記事となる。『松隣夜話』の成立時期と記主は不明だが、上杉憲政家臣に小林松隣の号を称する人物がいた(中世史部会1989)。
通常「独特の名詞+夜話」の組み合わせで構成される軍記のタイトルは人名を冠するので松隣作と仮定できる。また『軍鑑』の川中島合戦になぜか越後視点の描写があり、この部分は初稿を継承した春日惣次郎が亡命先の上杉領佐渡で書き上げる際、越後で作られた『松隣夜話』を参考としたと考えられる。なお、『松隣夜話』の記主を宇佐美勝興と見る説もあるが、その論拠は何もない。
私はこれらの成立時期を『松隣夜話』→『軍鑑』→『陰徳記』の順番と思う。加えて後世の米沢藩で編纂された上杉家の正史『謙信公御年譜』も参考とする点がある。
川中島合戦について、ここでは要点のみを記述する。
川中島合戦は上杉政虎が初めて自らの念願を達成した会戦であった。
念願とは、信玄の旗本に自らの旗本を直接ぶつけ、叩き壊す戦法──俗に言う「車懸り」──の実用と、それに伴う「自身太刀打ち」の実現である。その狙いは壊乱した旗本の奥に控える信玄その人を討ち取ることにあった。
政虎が自らの意思で旗本同士の対決に持ち込んだことは『軍鑑』に記述がある。政虎は自軍の諸隊を残らず武田諸隊に接触させ、全軍を足止めさせることで、旗本同士の決戦を実現した。
しかし、双方の旗本が拮抗する戦力であったならこんな作戦は成立しない。そんなことをやって、もし政虎が敗れたらその面目は完全に失われてしまう。敵味方に犠牲を強いて、やることが思いつきの無謀であっては支持を得られず、諸隊を指揮する部将たちも進んで足止めに参加することはない。
政虎の旗本が勝利する決定的確信と、客観的な合意を得られる要素があったと見るべきだろう。実際に政虎は信玄の旗本を混乱に陥らせ、信玄本人を負傷させた。
この答えは軍記に記されていないが、『謙信公御年譜』に政虎の編成した旗本の隊列が詳述されており、かつまたその隊列から考えられる戦法は、豊臣時代の朝鮮出兵で日本軍が見せた独特な戦法と、近世の軍学者が説明する次のような用兵と同一である。
まず最前列に旗隊の行列がある。接敵するとこれらが横列に並び直して横陣のモデルを示す。次に続く鉄炮隊が旗の背後に整列して、旗が左右から離脱したら、銃撃を開始する。一通り銃撃を終えたら、続く弓隊が弓射をもって混乱を誘う。これを繰り返したところで、背後の長柄鑓が一斉に進み出て、混乱した敵隊の回復を防止または拘束する。そこへ敵隊の混乱に乗じる騎馬武者たちが敵隊の奥深くへ乗り入れ、中枢の上級武士たちを討ち取るのだ。
実は村上義清がこの戦法を使って信玄を負傷させたことが『軍鑑』に詳述されており、義清が若き日の景虎にその内容を伝授する描写も川中島と別の項に記されている。これを受けた景虎が「御馬廻之軍列」という旗本陣立書を作成させ、義清の戦闘方式を採り入れた。旗本陣立書は、現実の戦闘に備えて設定される単隊の編成配置図で、「御馬廻之軍列」は同カテゴリに属する(乃至2016)。政虎はこれを本格的に実用して確かな戦果を挙げた。逆に言えば、武田軍は深刻な被害を受けた。
更新:12月12日 00:05