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上杉謙信の「車懸り」戦法、ルーツは村上義清だった?!

2023年05月22日 公開
2023年05月26日 更新

乃至政彦(歴史家)

 

政虎と信玄の一騎討ち

川中島の信玄は白い頭巾の騎馬武者の強襲を受けて負傷したと『軍鑑』にある。その時は何者の討ち入りか不明だったが、後から聞いたところ、他ならぬ政虎自身だったと伝えられている。

政虎も信玄も、眼前の武者が敵の総大将かどうか確証を得られなかっただろう。信玄の周囲には山本道鬼斎や真田一徳斎などの法師武者が多数立ち並んでいた。乗り込んだ政虎は適当な敵に斬りかかったが、要領を得られないまま撤退したようである(乃至2021)。

一般に、「上杉軍は戦術的勝利を得たが、武田軍は戦略的勝利を得た」と評されることが多い。だが双方の狙いは北信濃の利権確保にあったわけではない。政虎は信玄を討ち取り、武田軍の妨害を抑止するのが望みで、信玄は自勢力および同盟国への上杉軍の脅威を取り除くことが望みであった。そうした背景を顧慮することなく、地政学的視点からのみ両者を比較するのは、表層的な雑評に終始するのではなかろうか。

同年冬、政虎は足利義輝から偏諱を受け、上杉輝虎へと改名した。

戦国時代は上杉・武田・北条の東国「三大名」だけが兵の武装と人数を指定する精緻な「軍役定書(着到定)」を制定している(則竹2009、2010、2011)。

その理由は単純で、前列に火器を集中して敵部隊の早期壊滅を狙う機動型の縦列編成はこれまで前例がなく、かつまたこれに即応してその目的を阻止するには、同型の縦列編成を採用するほかなかった。ゆえに武田軍と北条軍は上杉軍対策として同種の軍隊運用を導入することにしたのである。

 

朝鮮で戦った豊臣軍の用兵

そして豊臣時代になるとこの編成と用兵が全国に普及され、異国との合戦で圧倒的な効果を発揮した。

朝鮮出兵での用兵については『宣祖実録』巻72に整然と列をなす「負旗者(小旗兵)」「鳥銃者(鉄炮兵)」「鑓剣者(長柄歩兵)」そして「奇兵(騎兵)」が計画的に連携して戦う「倭人陣法」の記述がある。

豊臣時代の武将たちはこのように隊列を操作して敵隊を壊滅させていたのである。大陸は異国の用兵を克服するため、日本人の捕虜からその仕組みを教わり、これを自軍の用兵として採用していく。

戦国日本で生まれた戦法は、武田軍との抗争で人材を喪失した義清が敵総大将と差し違えるつもりで作り出したものである。それを越後の若き国主が大々的に採用することで、「車懸り」と俗称される用兵を編み出すことになった。

なお、この配置編成は近世の大名行列に受け継がれ、大名行列にその様式を残した。こうした経緯から近世徳川時代には、上杉流と武田流の軍学が特別に信奉され、ついで北条流が支持されることになった。天正5年(1577)7月には北条軍も上杉式の用兵を実用しようと試みた形跡がある(遺文北条1923、乃至2018)。

上杉・武田・北条以外の大名たちは、謙信存命中、こうした特殊な編成と用兵を導入するどころかその片鱗すら視認できておらず、もしこれと直面した場合、初見では朝鮮軍同様、一方的に蹂躙されたことであろう。

 

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