2018年03月10日 公開
2022年08月01日 更新
文亀元年3月11日(1501年3月29日)、村上義清が生まれました。武田信玄(晴信)を二度破った武将として知られます。
北信濃の武将・村上顕国の息子として葛尾城に生まれた義清は、永正17年(1520)頃に家督を相続して当主となり、東信濃の海野氏、佐久の大井氏を下して勢力を拡大、北信濃の高梨氏と争いを続けます。そこへ侵攻してきたのが、甲斐の武田晴信でした。
佐久を奪った武田勢は天文17年(1548)、小県南部へ侵攻、義清はこれを迎撃します。上田原の合戦です。義清軍は武田の有力武将・板垣信方を討ち取り、義清自ら晴信本陣に攻め込んだといわれます。武田勢は崩れ、重臣の甘利虎泰も討死、晴信にとって初めての大敗となりました。
この結果に、信濃の諸豪族は結束して武田に向かうことになりますが、信濃守護・小笠原長時が敗れると、武田勢は再び小県に侵攻し、村上方の戸石城を囲みます。しかし義清自ら出陣し、後退する武田勢に追撃をかけて横田高松らを討ち取り、再び武田勢を破りました(戸石崩れ)。
局面を変えたのは、武田配下の真田幸隆でした。得意の調略で戸石城を落とし、周辺の諸豪族を味方につけたのです。孤立した義清はもはや葛尾城も支えきれないと判断し、長尾景虎を頼って越後へ落ちました。これが、川中島合戦の直接的な原因となります。
その後、義清は第四次川中島合戦でも奮戦しますが、信濃に返り咲くことはありませんでした。息子の国清は上杉謙信の養子となり、厚遇されています。若き日の武田晴信にとって義清は巨大な存在であり、敗戦の教訓を学んだ相手であったことでしょう。
更新:12月10日 00:05