山本勘助と真田幸村といえば時代劇のスターといってもよいでしょうが、実はこの二人、日本の歴史学の上では厄介者扱いなのです。
山本勘助、つまり武田信玄の「軍師」としての勘助は、かつて歴史学界では存在を否定されていました。「伝説上の人物」だというのです。確かに軍師という言葉はもともと中国語で、日本の戦国時代にはそういう言葉は使われていなかった可能性は高いのです。しかし、それは勘助が存在しなかったということとは全く意味が違います。にもかかわらず、歴史学界は「勘助は実在しなかった」という説を採用していました。このため作家、海音寺潮五郎氏は小説『天と地と』を書くにあたって、山本勘助を登場させませんでした。歴史学界の悪影響を受けてしまったのです。
なぜ歴史学界は勘助の存在を否定したのでしょうか? 理由は簡単で「同時代の史料に勘助が登場しない」というものでした。いかに状況証拠で勘助が存在したと推論できても、証拠が出ない限り絶対ダメだというのが歴史学界の頭の固さです。
ところが証拠が出ました。皮肉なことに『天と地と』がNHK大河ドラマになって放映された時に、それを見ていた視聴者が自分の家に先祖から伝わっている文書が、信玄の書いたものだと気がつきました。テレビ画面に信玄の花押、つまりサインが大写しになったからです。その文書になんと山本菅助(勘助)の名前が書かれていたのです。文書はもちろん本物で、これ以降、歴史学界は手のひらを返したように「勘助は実在した可能性が高い」といい出しました。
証拠(史料)があれば認めるが、証拠がなければ絶対に認めない。こういうのを実証主義といいます。人の運命を左右する裁判なら、それでも結構ですが、歴史については史料がないものもあります。そこは推理推論で埋めるしかないでしょう。そしてその推理推論は妥当ならば仮説として、この場合なら「山本勘助は実在した可能性が高い」と認めるのが学問の常道であるはずですが、日本歴史学界はこの常道を外しているということです。
実は真田幸村もそうした「頭の固さ」の犠牲者です。2016年のNHK大河ドラマ『真田丸』でも、幸村とは呼ばずに信繁と呼んでいます。なぜそうなのかはもうおわかりでしょう。歴史学界の先生方が「同時代に幸村と名乗ったという史料はない」というからです。
この幸村という名前は少し後の江戸時代の文書に出てくるのです。しかし私は、最初真田信繁と名乗っていた武将が、幸村に改名した可能性はかなり高いと思っています。その理由は、信繁という名は、武田信玄の弟武田信繁にちなむものであるからです。戦国時代、弟はしばしば兄に逆らいました。織田信長も伊達政宗も実の弟を殺しています。しかし武田信繁は兄信玄に誠実に仕え、川中島の合戦では身代わりとなって死にました。まさに「弟の鑑」です。だからこそ彼の父真田昌幸は兄信幸を助けよと、弟を信繁と命名しました。
しかし大坂の陣で信繁は兄信幸とは敵味方になってしまいました。これは父昌幸の願いに反したことになります。そして信幸は徳川家への忠誠を示すため真田家伝来の父からもらった「幸」の字を捨て信之と改名しました。これまで信繁は次男という立場を守り「幸」の字は受け継いでいませんでしたが、兄が捨てたというなら遠慮することはありません、徳川を打倒せよという父昌幸の遺志を受け継ぐためにもその字を拾い上げたはずです。そして兄と敵味方になった以上、信繁という名は捨てなければなりません。
そういうことを考え合わせると、信繁は大坂城入城にあたって名を幸村と改めた可能性はかなり高いと思います。こういうのを合理的仮説というのですが、もうおわかりでしょう。歴史学界は決してこういう考え方を受けつけません。もし今後NHK大河ドラマ『真田丸』を見た視聴者の家に伝わる先祖伝来の古文書の中に、同時代に彼のことを「幸村」と書いたものが発見されれば、まさに手のひらを返し「信繁ではなく幸村が正しい」などということになるのでしょうが。
※本記事は、井沢元彦著『学校では教えてくれない日本史の授業 謎の真相』「まえがき」より、抜粋したものです。
更新:11月21日 00:05