歴史街道 » #PHP文庫の記事一覧

#PHP文庫の記事一覧

三方原の戦い~いちばんの敵は味方だった !? 家康を大敗させたダメ家臣団

河合敦(歴史作家/多摩大学客員教授)

三方原の戦い~いちばんの敵は味方だった !? 家康を大敗させたダメ家臣団

河合敦(歴史作家/多摩大学客員教授)

  三河武士団は、家康に心服していなかった! 武田信玄が侵攻してきた三方原の戦いで、いったいなぜ徳川家康は負けることを承知で浜松城から出撃したのだろうか―。 巷説では、同盟者の信長に対す...

ナポレオン・ボナパルトに学ぶ「最強の教訓」~好機の神に後髪なし!

神野正史(河合塾世界史講師)

ナポレオン・ボナパルトに学ぶ「最強の教訓」~好機の神に後髪なし!

神野正史(河合塾世界史講師)

ナポレオン・ボナパルト。 革命期フランスの軍人・政治家。 裸一貫で身を起こし、フランス第一帝政の皇帝に即位する。 18世紀の末、混迷を窮めたフランスに彗星の如く現れ、あっという間にフランスをま...

ビスマルクに学ぶ最強の教訓~戦術と戦略を見極めよ

神野正史(河合塾世界史講師)

ビスマルクに学ぶ最強の教訓~戦術と戦略を見極めよ

神野正史(河合塾世界史講師)

オットー・ビスマルク 永きにわたって分裂状態が続いていたドイツを統一に導いた名宰相。明治の政治家からも尊崇を受けた傑物。 (イラスト いのうえもえ)   偉大なる名宰相、オットー・フォン...

片倉景綱~ 「攻め」のトップ政宗を補佐し、危機を救った「守り」のナンバー2

童門冬ニ(作家)

片倉景綱~ 「攻め」のトップ政宗を補佐し、危機を救った「守り」のナンバー2

童門冬ニ(作家)

白石城三階櫓(宮城県白石市) 白石城は別名、益岡城、桝岡城。仙台藩の南の要衝に位置し、関ヶ原の戦いの後、明治維新までの260余年、伊達家の重臣片倉氏の居城であった。   ご学友型ナンバー2 ...

龍造寺隆信~討ち死に後、その首はなぜ受け取りを拒否されたのか

楠戸義昭(歴史作家)

龍造寺隆信~討ち死に後、その首はなぜ受け取りを拒否されたのか

楠戸義昭(歴史作家)

  龍造寺隆信は沖田畷でいかに討たれたか 肥前の龍造寺隆信は「五州二島の太守」と称され、九州を大友氏、島津氏と三分する勢力にのし上がった。 だが慢心して独善的になり、周囲の意見を聞かず、島...

統帥権⼲犯問題と憲法改正反対―「⼤⽇本帝国」の失敗

瀧澤中(作家/政治史研究家)

統帥権⼲犯問題と憲法改正反対―「⼤⽇本帝国」の失敗

瀧澤中(作家/政治史研究家)

本記事は、瀧澤中著『「??本帝国」失敗の研究【1868-1945】』(PHP?庫)より?部を抜粋編集したものです。   ロンドン軍縮條約は、?字通り軍縮のための條約である。 軍縮には?所・短所、2つの側?があ...

那須与一 「扇の的」で名を上げた若武者!家督を捨て、供養の旅に出る

日本史・あの人の意外な「第二の人生」より

那須与一 「扇の的」で名を上げた若武者!家督を捨て、供養の旅に出る

日本史・あの人の意外な「第二の人生」より

  那須与一、「扇の的」のその後 源平合戦の一つ、「屋島の戦い(1185)」。船の上に平氏が、岸に源氏が布陣し、激しい戦いがくり広げられた。そのとき、平氏軍のなかから美女を乗せた小舟が登場。「...

山本勘助と真田幸村。時代劇のスターは歴史学では厄介者?

井沢元彦(歴史作家)

山本勘助と真田幸村。時代劇のスターは歴史学では厄介者?

井沢元彦(歴史作家)

学校では教えてくれない日本史の授業 山本勘助と真田幸村といえば時代劇のスターといってもよいでしょうが、実はこの二人、日本の歴史学の上では厄介者扱いなのです。 山本勘助、つまり武田信玄の「軍師」と...

柴田勝家はなぜ、賤ヶ岳で敗れたのか~秀吉の謀略と利家の裏切り

井沢元彦(歴史作家)

柴田勝家はなぜ、賤ヶ岳で敗れたのか~秀吉の謀略と利家の裏切り

井沢元彦(歴史作家)

  勝家の家族関係を利用した秀吉の謀略 本能寺の変が終わった直後の秀吉の本拠は、毛利攻めのときの本拠地だった姫路城でした。それを秀吉は、柴田勝家が北陸に帰った直後、明智光秀との決戦場となった山崎...

本能寺で討たれた信長の首は富士山麓に葬られた!?~西山本門寺にある首塚の謎

楠戸義昭(歴史作家)

本能寺で討たれた信長の首は富士山麓に葬られた!?~西山本門寺にある首塚の謎

楠戸義昭(歴史作家)

織田信長公の首塚(静岡県富士宮市、西山本門寺)   なぜ、信長の首塚が富士山麓にあるのか? 戦国時代、最も衝撃的といわれる本能寺の変―それだけに多くの謎を秘める。墓もまた様々な謎に包まれている。 ...

徳川家康は大坂の陣で討ち死にしていた!?~堺・南宗寺にある墓の謎

楠戸義昭(歴史作家)

徳川家康は大坂の陣で討ち死にしていた!?~堺・南宗寺にある墓の謎

楠戸義昭(歴史作家)

  本物の家康は、すでに死んでいた!? 謎といえる家康の墓が、大阪府堺市の南宗寺にある。 家康は元和2年(1616)4月17日に75歳で駿府城で死んだが、実はこの時に死んだのは影武者で、本物の家康...

島左近は、関ケ原で討ち死にしたのか?~京都・立本寺にある左近の墓

楠戸義昭(歴史作家)

島左近は、関ケ原で討ち死にしたのか?~京都・立本寺にある左近の墓

楠戸義昭(歴史作家)

  戦国武将「お墓」でわかる意外な真実 関ケ原で討ち死にか、落ち延びたのか? 食い違う記録 太閤秀吉が死んだ後の豊臣家の行く末を、一番心配していたのは石田三成である。 その三成が4万石...

織田信長は、なぜ石山本願寺を攻め続けたのか?

竹村公太郎(元国土交通省河川局長/リバーフロント研究所研究参与)

織田信長は、なぜ石山本願寺を攻め続けたのか?

竹村公太郎(元国土交通省河川局長/リバーフロント研究所研究参与)

『 日本史の謎は「地形」で解ける【文明・文化篇】 』より 蓮如上人真蹟の碑「南無阿弥陀仏」 (大阪城公園/大阪市中央区)   地形で解く日本史の謎 石山本願寺の謎  信長は1570...