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梟雄・津軽為信も、密かに「女」の怨念を恐れていた!?

2018年04月05日 公開
2022年12月07日 更新

楠戸義昭(歴史作家)

津軽為信
 

奇策、急襲、毒殺……津軽為信は南部家からいかに国盗りしたのか?

「我、天地人に制せられず」。 津軽為信の座右の銘とされる。この宇宙の制約を自分は受けない。つまり世界で我より尊いものはないという意味である。 下剋上の戦国の世、為信は人を恐れず、神仏も恐れない。善悪の見境いなく、勝機を切り拓いて、主家の南部氏から津軽を切り取った。その才智、度胸、 小賢しさは豊臣秀吉に通じるものがあるといわれる。

為信の父は南部一族で下久慈(岩手県久慈市)の城主・久慈備前守で、母は九戸政実の妹ともいわれる。母は備前守の後妻に入ったが、備前守と死別後に先妻の嫡子が城主になって虐待されたため、為信が14歳の時、母子は縁を頼って津軽の大浦城(青森県弘前市)に身を寄せた。

城主は大浦為則で、その娘に為信と同い年の阿保良(戌姫)がいた。愛し合う仲になって永禄10年(1567)3月に結婚すると、その翌月、為則が死んだため為信は18歳で幸運にも大浦家を継いだ。

大浦城主になってすぐ、為信は家臣に武具着用の非常招集をかけ、収穫が終わった野崎村に夜襲をかけさせて焼き払わせた。家臣の忠誠心を試す訓練だった。事前に農民を家財道具ごと避難させ、焼けた家は新しく建ててやった。農民たちは面白い殿様だとして目をパチクリさせた。

また為信は本州最北の地にいながら、中央の状況に敏感で、織田信長の台頭に目を見張り、 弥彦神社と羽黒山への参詣にかこつけ、情報通の最上義光を山形に訪ねて緊密になり、以後、義光から諸国の情報を貰う。

こうした中で、若い為信夫婦は津軽略奪の野望を抱き、綿密に計画を練り上げた。

大浦氏の支城・堀越城と指呼の間に、南部氏の津軽での拠点・石川城があり、後に南部本家を継ぐ信直の父高信が守備していた。為信は媚を売って高信を信頼させ、堀越城の改修許可を得ると、武器を建築資材に紛れ込ませて運び込んだ。

為信は勝つためには手段を選ばなかった。バクチ場で雇ったならず者87人に、色香も美しい22歳の阿保良が、満面の笑みを振りまいて、花染めの手拭いに強飯を包んで一人ひとりに与えた。これに歓喜してならず者たちは先を争って石川城に突入し、婦女子を手籠にした。そうなれば侍たちは妻や娘が心配で、相手とまともに戦えない。そこに為信の軍勢が襲いかかり、敵を次々に討ち取り、高信の首をも取った。まさに勝てば何をしてもいいという戦法だった。

さらに為信はこれも常識では考えられない戦術に出る。朝、石川城を落とすと、昼前に和徳城に出撃し、強敵の南部家臣・小山内讃岐父子を殲滅した。1日に2度の城攻めなど考えられなかった。その「まさか」をやってのけ、見事に成功した。

南部史料には、浪岡城(青森市浪岡)にいた郡代の政信(信直の弟)が為信に毒殺されたとある。為信は娘(妹ともいう)久子を政信の側室に送り込む。政信は久子を寵愛し、義父になった為信を饗応する。それにつけ込み為信は毒を盛って久子もろともに政信を殺害したというのだ。

雪に閉ざされる真冬は戦わないのが当時の常識だった。だが、為信はガンジキを皆に履かせて雪に埋もれる大光寺城(青森県平川市大光寺)を急襲し、城主の滝本重行を南部に追いやった。

為信は耳元までいっぱいに黒々と髭をはやし、いかにもいかつい田舎者といった顔をしていたが、丸い目に愛嬌があり、南部氏の重税政策に苦しむ農民に医薬品を提供するなどして慕われた。勝つために邪悪な事もしたが、民衆には仁愛を施して圧倒的な支持を受けた。

誼を通じた最上義光から為信は、奪った津軽の地は天下人秀吉から安堵状を貰えば自分のものになると教えられる。

そこで為信は一計を案じた。かつて漂泊した公家の近衛氏が津軽にいた事実を利用した。自分をその落とし子の末裔であると宣伝して、たくさんの金品を持って京都の近衛家に会いに出掛けた。秀吉は関白になる際に、近衛前久の猶子となって藤原姓をもらった。計略がうまく運べば秀吉同様に近衛氏の一族になれると踏んだのだ。果たして前久は為信の言葉を信じ、家紋の牡丹紋、藤原姓を与え、しかも秀吉への紹介状まで書いてくれた。

為信は喜び勇んで小田原の陣に向かう秀吉を追い掛け、沼津で追いつく。紹介状が物をいって、津軽の地を安堵された。関白秀吉のお墨付きによって、為信は南部から津軽の地を奪い取ることができたのである。

為信は津軽を手に入れると「大浦」姓を捨て「津軽」姓を名乗る。その津軽家の菩提寺・長勝寺は、弘前城の西南1.2キロ、戦いの際にかつて女子供を避難させるために為信が縄張りした隠し砦で、今は禅林街と呼ばれる寺々の奥にある。歴代藩主や阿保良ら奥方の霊屋が並ぶ。為信の等身大の木造座像はあるが、墓はない。為信の墓は岩木川を越えた弘前城の北西1キロのところに、ぽつんと離れてあり、謎を秘める。

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