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梟雄・津軽為信も、密かに「女」の怨念を恐れていた!?

2018年04月05日 公開
2022年12月07日 更新

楠戸義昭(歴史作家)

墓の陰に、惚れた女の怨念が?

これには惚れた女の怨念が絡んでいる。

為信は妻阿保良と相思相愛、国盗りも二人三脚でやってきた。この夫婦に秀吉夫婦と同じ悩みがあった。秀吉の妻おねには子供ができなかった。阿保良も同じだった。

夫は子供が欲しく、他の女に目が行く。秀吉は子種がなかったのか、なかなか子はできなかったが、為信は三男二女を側室に産ませている。そうした中で、秀吉同様に、為信もいい女と見れば手を出さずにはいられなかった。

そんなこともあってか、為信の諸城制圧には女がからむ逸話が多い。ガンジキをつけ雪の大光寺城を攻めた際、城代・滝本重行の妻は落城を前に、為信にあてつけるように、座敷の柱に「いまはとて立ち別るとも馴れに来し 槇の柱よわれを忘るな」と詠んだ短冊をつけて南部に去った。

浅瀬石城(同県黒石市)では死闘が演じられ、村上理右衛門の30歳ばかりになる妻は、夫とともに為信軍に襲いかかり、10人余りを討ち取った。しかも妻が相手を斬り従え、夫が止めを刺して首を取るという、“婦唱夫随”の活躍だった。

田舎館城(同県南津軽郡田舎館村)は為信の猛攻に落城し、城主の千徳掃部政武は自刃した。妻は17歳のお市の方。父の小山内永春は和徳城城主で為信に殺されていた。彼女は復讐を誓い、為信の命を狙って動き回るが、ついに為信を討つチャンスはめぐってこなかった。時に関ケ原合戦の翌慶長6年(1601)3月、為信は戦死した味方だけでなく、敵方の将兵の霊も弔う大法要を営んだ。お市の方はその法要で為信を許し、果たせなかった復讐を夫や父に詫びるように、仏前に進んで、多くの参拝者の中で自刃して果てた。

そして為信の墓にまつわる女の登場となる。為信は美貌の未亡人に恋をした。夫が死んだが、まだ若く、一人息子がいたため、髪を下ろさなかった。そして息子の成長を待つため、再婚もせず女城主となった。為信はこの彼女を自分のものにしたかったが、彼女は為信に見向きもしなかった。彼女の差配する城は、小規模で藤代館と呼ばれていた。

こうなれば力ずくで彼女を手に入れようと、為信は少勢で攻めた。だが力に屈する女城主ではなかった。

『藤代村郷土史』によれば、「この館の女主人、藤代御前は希代の勇婦で、武器を取り、家従数人とともに打って出て、血戦の末に死んだ」のである。

藤代御前は操を守って武器を取った。その死に臨んで、憎しみのまなこで為信を睨みつけ、「この恨み、末代までも為信の子孫に祟ろうぞ」との言葉を吐いて息絶えたのだった。

為信は藤代御前の美貌を脳裏に浮かべながら、以後、その恨みの言葉を気にしていた。藤代御前の名は館のあった場所をさしている。そして不思議なことに、為信の菩提寺の革秀寺 、つまり墓のある場所は、現在の住所が弘前市藤代一丁目。つまりかつて藤代館があり、彼女が住み、戦って死んだ場所、そこに革秀寺があり、為信の墓があるのだ。
 

※本記事は、楠戸義昭著『戦国武将「お墓」でわかる意外な真実』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。

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