木村重成の墓(大阪府八尾市)
「和国随一の美男」にして勇気ある武将と称えられる木村長門守重成は、真田幸村、後藤又兵衛とともに、豊臣家滅亡の最後の決戦で散った大坂方エースの一人だった。
年齢いまだ23歳、首実検で徳川家康が髪から漂う香の匂いに、「天晴れな武士」と称えた。
その首塚が滋賀県彦根市本町の宗安寺にある。首を取った井伊家家臣・安藤長三郎重勝が丁寧に自分の墓地に埋葬し、子孫がその墓を大事に守ってきたからである。
重成の初陣は冬の陣だった。大坂城の北東、大和川北岸の今福を家康方の佐竹義宣隊が攻め、四重にもうけた木柵を突破しようとした。駆けつけた重成はこれを押し戻す見事な働きをした。
この彼の出自は必ずしも明らかでなく、近江の佐々木氏の一党である木村常陸介重茲の息子とする説が有力である。重茲は関白秀次の執権として出世する。だが秀吉は誕生した秀頼可愛さから、秀次に罪を着せて葬り、重茲もまた罪に問われて自刃した。この時、重成はわずか3歳だった。
それにしても皮肉なのは重茲が父親という説をとる場合、秀次追い落としの主因となった秀頼の乳母が重茲の妻・宮内卿ということになる。重成と秀頼は乳兄弟なのだ。このため重成は淀殿に可愛がられ、3000石をもらい、豊臣ファミリーとして重きをなし、大坂の陣では作戦会議などに加わり、一方面をになう武将になる。
大坂冬の陣で和睦が成った際、重成は家康から誓詞をもらうため、茶臼山の家康本陣に代表の一人として出向いた。この時に家康の血判が不鮮明と苦言を呈し、家康に血判をやり直させた。家康は見どころある若者として顔を覚えた。
容貌にすぐれた重成に奇想天外な逸話がある。大坂の陣の発端は、京都方広寺の梵鐘銘文が家康を呪ったものであると因縁をつけられたことだった。この弁明に淀殿の乳母・大蔵卿局と秀頼の槍の指南役だった正栄尼が、駿府の家康のもとに弁明に向かったが、この一行に重成も加わっていた。それは敵状を探るためだったが、驚くことに彼は女装して侍女に扮していたという。まさに女以上に女らしい美しさに、その侍女が男であることに気づく者は誰もいなかった。
その美貌を女たちも放っておかなかった。大坂冬の陣のさなか、大蔵卿局の姪である青柳が恋をした。重成に「恋侘びて絶ゆる命はさもあらはあれ 扨も哀れといふ人もかな」との歌を短冊に認めて贈った。「恋煩いをして死ぬも本望、哀れと思ってくれる人もいますね」という意味である。重成はこの歌に応えて、冬の陣が終わってすぐ青柳を妻に迎えた。だがその幸せは夏の陣の戦乱に搔き消えてしまう。時に戦いの真っ最中、2人は死を覚悟して結ばれた夫婦であった。夏の陣の決戦は慶長20年(1615)5月6日と7日の2日間である。出陣の前夜、重成は妻青柳のつぐ酒に快く酔った。だが愛情込めてつくった料理には手を付けなかった。いぶかる妻に「むかし後三年の役で、戦功のあった八幡太郎義家の家臣・末割四郎が、敵の矢に喉を射貫かれた時、飯粒が出て、恥辱を受けたということだ。五穀を胃に入れて戦い、討たれた後、汚物を残すことはあってはならない。だから食事はとらないのだ」と答えた。妻はその夫の覚悟に心を打たれた。
青柳は夜、出陣する夫の持ち物を揃え、忘れ物がないか点検した。そして最後、重成がつける兜の内側に、夫が好むところの名香を入念に焚き込んだ。
更新:11月21日 00:05