2017年05月06日 公開
2019年04月24日 更新
慶長20年5月6日(1615年6月2日)、道明寺の戦い、誉田の戦い、八尾・若江の戦いが起こり、大坂方の後藤又兵衛基次、薄田兼相、木村重成らが討死しました。
「城は堀を埋められて防ぐすべがない。平原に迎え撃つにも、兵数に勝り、しかも老練な家康を破ることは難しい。ただし、関東方は必ず大和路から来るであろう。少数で大軍を迎え撃つには天険に拠る以外にない。山地の隘路で敵の先頭を叩けば、十中七、八は勝てる」
大坂城内での軍議における後藤又兵衛の提案に、真田幸村(信繁)、長宗我武盛親、毛利勝永、木村重成らは賛意を示します。時に慶長20年4月30日。
又兵衛の読みは当たっていました。総勢約15万の徳川軍は、河内口に12万、大和口に3万を進ませ、道明寺村付近で合流後、南郊から大坂城に攻め寄せる戦略だったのです。又兵衛もまた、主戦場を大坂城の東南約20kmの道明寺付近と読んでいました。道明寺の東に国分村があり、東は大和に接し、奈良より堺に通じる街道と、紀伊より山城に通じる街道が交差しています。 大和と河内の国境は生駒山などの山並みが連なり、主要な交通路として北の暗(くらがり)峠と南の関屋越・亀ノ瀬越があり、南の二道は国分で一つになります。これらの狭隘路こそが、又兵衛の狙いでした。
大坂方5万のうち、翌5月1日に又兵衛率いる6000余りが先発して平野に宿営。これに真田や毛利率いる1万2000が続きます。また木村重成率いる5700、長宗我部盛親率いる5000は道明寺の北方8kmほどの、八尾・若江方面を目指すことになりました。これは道明寺で又兵衛らが敵の先頭を叩いている隙に北方を迂回し、敵軍の脇腹を衝く計画であったといわれます。 大坂城の秀頼守衛に2万の軍勢を残せば、これが動員できるぎりぎりの数であったのでしょう。
一方、徳川軍はといえば、大和口の3万3000が4月28日以降奈良にあり、総大将を松平忠輝が務め、先鋒大将が水野勝成です。 忠輝は家康の6男、勝成は「鬼日向」の異名を持つ家康の従弟で、一時期、黒田家に仕えて後藤又兵衛をよく知っていたといいます。 水野勝成率いる3800は先発し、5月5日早朝にはすでに国分村に到達していました。あるいは大坂方の意図を察知してのことであったのかもしれません。
5月5日夜、平野では又兵衛、真田、毛利が会し、未明の道明寺での再会を約します。「夜明け前に国分の山を越え、関東方を迎え撃ち、われら三人が死ぬるか、家康・秀忠の首をとるか、いずれかに決しよう」
別盃を交わした3人は、まず又兵衛が先発します。 その夜、霧が深くなり、これが大坂方の目論見を狂わせました。夜の明けぬうちに道明寺に到った又兵衛は、敵が国分まで迫っていることを知り、狭隘部に拠る作戦が破綻しかけていることを悟ります。やむなく小松山に拠り、真田・毛利の後続部隊を待ちました。 しかし霧のために後続部隊の進軍が遅れ、午前4時頃、又兵衛は単独で関東方に戦いを仕掛けざるを得なくなりました。
小松山上からの攻撃で、敵先鋒の松倉重政隊を壊滅させ、続く奥田忠次隊の奥田を討ち取りますが、孤立無援の中、又兵衛は、片倉小十郎隊の放った銃弾により討死します。享年56。
又兵衛隊に後続していた薄田兼相も水野勝成隊に討たれました。真田・毛利隊が戦場に到着したのは陽がすでに中天にかかる頃。真田らは唇をかみますが、休む暇もなく、片倉小十郎の騎馬隊が襲撃します。真田はこれを十分にひきつけて鮮やかに撃退。 しかし戦機は逸しており、真田・毛利は残兵をまとめて大坂城へ撤収します。関東方はこれを追おうとせず、真田は「関東勢百万も候え、男は一人もなく候」と叫んだといいます。
一方、敵の脇腹を衝く目論見の木村重成、長宗我部盛親は八尾・若江の深い霧の中で、河内方面の先鋒・藤堂高虎の5000と衝突。これを粉砕しますが、続く井伊直孝5600と激闘の末、木村が討死。混乱の中、長宗我部は大坂城へと引き上げました。 かくして大坂方の企図は潰え、翌日の天王寺の決戦を迎えることになります。
最初から勝敗の行方は見えていたと語られる大坂の陣ですが、しかし武将たちは乾坤一擲の勝負をかけようとしており、大坂方は劣勢の中で、かなりよく戦っていたのではと感じます。
更新:11月22日 00:05