2016年10月22日 公開
2023年03月09日 更新
又兵衛の後藤家は、鎌倉時代に播磨国守護を務めたこともある名家でした。室町時代の嘉吉の乱で一度滅びますが、6代目が復興。播磨国神崎郡福崎の春日山城を居城としました。又兵衛は後藤氏の傍系として、永禄3年(1560)に春日山城の支城・南山田城(兵庫県姫路市)で生まれたとされます。名は基次。
ところが春日山城は中国征伐を行なう羽柴秀吉によって落とされ、後藤家の本家は滅びました。又兵衛は父・新左衛門とともに御着〈ごちゃく〉の小寺家を頼りますが、新左衛門は病死してしまいます。
そこで小寺家に仕えていた黒田官兵衛が幼い又兵衛をあわれんで、手元に引き取って養育しました。やがて元服を済ませ、将来を期待された天正6年(1578)、官兵衛は荒木村重の有岡城に幽閉されてしまいます。
同年冬、主不在の黒田家では、家臣一同が誓紙を提出しますが、又兵衛の伯父・藤岡九兵衛がこれに応じず、又兵衛ら後藤一族は黒田家から退転することになります。又兵衛、19歳の時のことでした。
やむなく又兵衛は一族の仙石権兵衛秀久に仕えますが、天正9年(1581)の四国・長宗我部勢との対峙の折、有岡城から生還した黒田官兵衛が仙石の陣中に又兵衛の姿を認め、又兵衛は黒田家に呼び返されるのです。官兵衛は、又兵衛の器量を買っていたのでしょう。
天正14年(1586)11月、官兵衛は九州征伐の初戦として、宇留津城(福岡県築上郡)を攻め落としますが、この時、母里、栗山、井上らとともに先駆けて武名を上げたのが、27歳の又兵衛でした。
翌年の日向財部(たからべ)城攻略でも武功を上げた又兵衛は、官兵衛の息子で又兵衛よりも8歳下の長政から「わが右の腕」と称され、重用されるようになります。
その後、文禄・慶長の役でも又兵衛は大いに活躍し、特に文禄2年(1593)6月の晋州城の戦いでは、朝鮮第一の堅城に一番乗りを果たし、加藤清正をも感嘆させたことで、又兵衛の名は一躍日本軍将兵の間に知れわたることになりました。
関ケ原合戦に参加後、又兵衛は黒田家当主の長政から筑前で1万5000石を拝領、益富城の城主となります。ところが又兵衛が近隣の大小名と直接手紙のやりとりをしたことが長政の逆鱗に触れ、又兵衛は一族とともに黒田家を出奔しました。
些細な原因ではありましたが、おそらく又兵衛と長政の二人は、ともに官兵衛のもとで育てられ、競争相手という意識が強かったのでしょう。その後、長政が当主になった以上、又兵衛にとって長政は主君ですが、どこか長政に対して気安さがあり、しかも又兵衛が有能であるだけに、長政にとっては許し難く感じられたのかもしれません。
以後、又兵衛にはさまざまな大名から誘いがかかりますが、長政が仕官を許さず(奉公構え)、結局、故郷の姫路に戻り、池田輝政の食客となりました。しかし輝政の死後、池田家からも追われ、浪々の身で慶長19年(1614)、豊臣家からの招聘を受けるのです。
更新:11月22日 00:05