2016年10月16日 公開
2023年03月09日 更新
関ケ原の小池の陣から、島津義弘隊は鉾矢〈ほうし〉の陣形を取り、敵中突破を図ります。慶長5年(1600)9月15日の午後2時過ぎであったでしょう。その中に、義弘の甥・豊久の姿もありました。
福島正則隊をはじめ東軍諸隊を突き破り、徳川家康本陣のある陣馬野を横目に、牧田路へ。西伊勢街道を目指します(ルートについては、異説があります)。
そのとば口にあるのが、烏頭坂〈うとうざか〉でした。桃配山の南東あたりです。ここにたどり着いた時、すでに島津隊は200人余りになっていました。戦場を中央突破したことで、半数以上が死傷落伍したことになります。
この時、追いすがる東軍諸隊を前に、討死を覚悟する島津義弘を諌め、自ら「捨てがまり」を買って出たのが豊久でした。「殿は御家の浮沈を担う大切な御身。落ち延び候え」。そして豊久は、13人の兵とともに敵前に立ちはだかります。
「豊久は乱軍の中にや紛れけん。ついに有様知る人なかりしとぞ」(『倭文麻環〈しずのおだまき〉』)。
豊久は烏頭坂で、井伊直政、松平忠吉隊相手に奮戦しました。その顕彰碑が同地に今も建っています。豊久の最期は詳らかではありませんが、この地で討死したという説もあります。一方で地元では、別の話も語り伝えられているのです。以下、紹介しましょう。
烏頭坂の戦いで重傷を負ったものの、豊久は生きていました。烏頭坂から南下すると、道は二手に分かれます。養老山地の東を進む表伊勢街道と、西を進む西伊勢街道です。島津義弘本隊は、表伊勢街道を進んだといわれます。
一方、豊久が向かったのは、西伊勢街道でした。あるいは、敵の判断を狂わせる狙いがあったのでしょうか。そして勝地〈かちじ〉峠の麓に至った時、再び井伊隊が追いすがってきます。
この時、豊久の周辺には複数の兵がいて、豊久隊を構成していたといいます。そして麓に展開した豊久隊は、満身創痍の豊久に代わって川上忠兄〈ただよし〉が、捨てがまりの中央に立ち、銃撃を指揮しました。
これに従っていた兵の一人、柏木源藤〈かしわぎげんとう〉が放った一弾が井伊直政に命中、主が負傷した井伊隊は、あわてて退却します。ここに豊久らはようやく、敵の追撃を振り切ったのでした。
更新:11月23日 00:05