2016年10月16日 公開
2023年03月09日 更新
しかし、勝地峠麓の戦いで島津兵の多くが斃れました。重傷の豊久は、他の者に助けられながら峠を越え、街道を進んで多良郷樫原〈かしはら〉(現、上石津町)に至ります。
ここで、豊久一行に救いの手を差し伸べたのが、名主の三輪内助入道一斉でした。豊久らに声をかけられた三輪は、豊久が主将の島津義弘を逃がすために奮戦し、満身創痍の重傷を負ったことに感銘し、一行を白拍子谷〈しらべしだに〉に案内したのです。
関ケ原敗軍の将を匿うなど、生半可な覚悟でできることではありません。三輪は名主である上に、相当に肚のすわった人物であったのでしょう。豊久の傷の手当てなども行なう手筈であったと想像できます。ところが…。
豊久はその夜、白拍子谷で落命しました。一説に、傷の重さから薩摩に帰ることはできないと判断し、他の者の足手まといにならぬようにと、自刃して果てたともいわれます。
三輪は突然の豊久の死に、言葉も出ないほど驚きますが、自ら豊久の亡骸を荼毘〈だび〉に付し、ねんごろに葬って、「島津塚」と呼びました。それが現在、上石津町多良の瑠璃光寺〈るりこうじ〉のすぐ北にある、豊久の墓所です。
墓所はカンリンヤブと地元で呼ばれる藪の中にあります。小さな石塔が豊久の墓ですが、花が手向けられており、地元の人々から今も大切にされていることが窺えます。
また瑠璃光寺には、豊久の位牌が安置されていますが、関ケ原合戦当時は正覚山薬師寺という寺で、薬師寺が廃寺になった後、江戸時代に瑠璃光寺として再興されたといわれます。
さらに地元には、豊久の従者らが持っていたという島津隊の茶釜や薬研〈やげん〉も伝わっており、島津の一隊がこの地を通過したことは、間違いないのでしょう。
地元の方に伺ったお話しの中に、豊久の墓の周辺には、豊久の無念のためか草が生えないという言い伝えや、またある石の前を不用意に通ると、片足が動かなくなるといわれ、それは足を負傷してその石のそばで討たれた島津兵の無念のため、といった伝承も残っていました。
はたして、この地で亡くなったのが島津豊久当人であったのかどうか、今となってはわかりません。しかし伝承は伝承として、大切に受け止めるべきものと私は思います。それが、「何か」を伝えようとしていることは間違いないからです。豊久の伝説、皆さんはどのように受け止められるでしょうか(辰)
更新:11月10日 00:05