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島津豊久は、なぜ関ケ原で石田三成に非協力的だったのか

2016年10月09日 公開
2023年03月09日 更新

『歴史街道』編集部

 

なぜ豊久は、三成に非協力的だったのか

「今日の儀は、面々切りに手柄次第に相働くべく候〈そうろう〉、御方も其〈その〉通り心得あるべし(本日の戦いは、めいめい勝手に戦うものと心得ており申す。貴方もそのように心得られよ)」(「山田晏斎〈あんさい〉覚書」)

関ケ原合戦の真っ只中、島津隊の前進を自ら促しに来た石田三成に、島津豊久が投げかけた言葉です。

合戦当日、島津隊は自陣から動かず、攻め寄せる敵を撃退することに終始しました。これに業を煮やした三成は、家臣の八十島助左衛門を二度、使いに送り、島津隊先鋒の島津豊久に前線に出るよう促しますが、豊久は動かず、むしろ馬上から口上を述べた八十島を無礼として、斬り捨てかねない権幕でした。

仕方なく三成が自ら赴くと、豊久が冒頭のように応え、三成は悄然と去ったといわれます。

豊久の振る舞いは彼の独断というよりも、主将の島津義弘の意を受けてのものであったでしょう。なぜ、島津隊は三成に非協力的な態度を取ったのか。これについては、前夜、島津義弘・豊久が大垣城で進言した夜襲策を、三成が蹴ったからだともいわれます。

前回、ご紹介した江戸時代に編纂された『落穂集』に見られる逸話で、昼に家康が赤坂に到着したばかりの東軍将兵の多くは疲れており、夜襲をかければ東軍は大混乱に陥るという島津の進言でした。これを三成と嶋左近主従は、数で敵に優る軍が夜襲をかけた例はなく、明日の平場での戦いで勝利は疑いないので、その必要はないと拒んだというのです。

このやりとりが事実かどうかは、同時代史料の裏付けがなく、疑問視する研究者が大半であることは、前回、少し触れました。江戸時代に書かれた編纂物ですので、事実かどうかは疑わしいというわけです。

『落穂集』は軍学者・大道寺友山(北条氏重臣・大道寺政繁の曾孫)が享保12年(1727)頃に著したもので、大道寺は『武道初心集』の著者としての方が有名かもしれません。

『落穂集』は編年で徳川家康の事績を記した書と、問答の形で武士の有りさまなどを示した書の二種類があり、関ケ原前夜の逸話は前者の、徳川家康一代記全15巻の10巻に載っています。

興味深いのは著者の註として、次のような記述があることです。「この一説は関ヶ原記、家忠日記等の書には見えないが、浅香左馬助が語るのを直接に聞いたと三輪大学が浅野因幡守殿へ雑談した。其上以前私が島津帯刀と会った時に尋ねたところ、委しい事は分からぬが関ヶ原一戦の前の夜、兵庫頭や中務の考えは家康公本陣へ夜討を掛けようと考えていた事は伝え聞いているとの事で爰〈ここ〉に書留めた」。

島津帯刀は薩摩藩二代藩主・島津光久の庶子で、文武に達し、世事にも通じた名家老として知られた人物。一方の浅香左馬助(庄次郎)は初名・水野少次郎。国色無双と謳われた美貌の持ち主で、織田家、蒲生家を経て、関ケ原合戦時は三成に仕え、後に前田利常に仕官したといわれます。なお浅野因幡守は初代三次藩主の浅野長治。

いずれも当時、名の通った人物であり、だからこそ関ケ原前夜の夜襲策は、他の記録にはないものの、大道寺友山も書き留めておく価値があると判断したのでしょう。

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夜襲策進言の有無と、関ケ原での島津の思惑 >

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