2016年10月07日 公開
2023年03月09日 更新
「手前無人〈ぶにん〉にて、何を申し候〈そうろう〉ても罷〈まか〉り成るまじくと迷惑この時に候(当方は軍勢が少なく、どうしたところでうまくいかないだろうと困っています)」
慶長5年(1600)7月24日、島津義弘は何度目かの軍勢派遣要請を国許に送りました。すでに上方では、豊臣家の大老徳川家康が6月18日に会津に向けて出陣、義弘は家康から直々に伏見城の留守番を頼まれていたのです。
ところが義弘には手勢がなく、かき集めても島津兵は200人程度であったといわれます。これには事情がありました。前年の慶長4年3月、伏見の島津邸で茶会が開かれた折、義弘の嫡男忠恒〈ただつね〉が、一族の伊集院忠棟〈いじゅういんただむね〉を無礼討ちにしたのです。
伊集院はかねてより、島津宗家を侮り、非礼の振る舞いを重ねていたためであるといわれます。しかし、これに忠棟の息子・忠真(ただざね)が怒り、国許で叛乱を起こしました。いわゆる庄内の乱で、島津家は鎮圧に苦労し、一年近くを費やしたのです。
この時、乱の調停を図ったのが、豊臣政権の大老徳川家康でした。義弘はその御礼を申し上げるために、会津へ出陣前の家康を訪ねたところ、伏見城留守番という思わぬ依頼をされたのです。ところが国許の兄・義久は、乱の直後で家中統制に忙殺され、また中央の政局を静観したいという意向もあって、援兵派遣に積極的ではありませんでした。
一方、家康が討伐軍を引き連れて関東に向かった後の上方で、元五奉行の石田三成が起ち上がります。7月17日、三成は毛利輝元を総大将とし、三奉行の連署というかたちで家康への弾劾状を発給、諸大名の糾合を図りました。
同じ頃、家康からの依頼を受けて伏見城に向かった義弘は、予想外の事態に直面します。伏見城の守将で徳川家家臣の鳥居元忠は、家康の義弘への依頼を知らず、義弘の真意を疑って伏見入城を拒んだのです。僅かな手勢しか持たない義弘はいかんともしようがなく、伏見城に攻め寄せようという石田三成らの要請を受けて、西軍に加わりました。
そんな中、義弘のもとに駆け付けたのが、甥の島津豊久です。義弘の弟・家久の嫡男で、家久亡き後、佐土原城主の座を継いでいました。しかし、かねてより伯父義弘を慕う豊久は、庄内の乱に出陣した直後ながらも、義弘と行動をともにすべく加わったのです。
やがて正規の島津軍ではないながらも、個人的に義弘の求めに応じた将兵が続々と上方に駆けつけてきます。義弘の兄・義久も、積極的な援軍は送らないものの、自発的に義弘を助けようとする者たちが上方に向かうのは、止めませんでした。その数は1000人前後であったようですが、自発的に馳せ参じた者たちばかりであり、士気は旺盛でした。
西軍に与した島津義弘勢は、伏見城攻めで奮戦します。松丸口攻めで一番槍をつける者、敵と組み打ちして討死する者など、その勇猛さを発揮し、「伏見城が落ちた時、薩摩勢はあるいは負傷し、あるいは討死した者が多数あった」(「本田正親書状」)と記されるほどでした。しかしもともと少ない手勢なので、伏見の死傷者は義弘にとって痛手だったでしょう。
更新:11月23日 00:05