2016年10月07日 公開
2023年03月09日 更新
かねてより島津義弘は、石田三成とは深い関わりがありました。秀吉の九州征伐で島津が降伏して後、秀吉との間を取り次いだのが三成であり、中世的な島津家中の古い体質を、豊臣大名に相応しいものに脱皮するようアドバイスしたのも三成でした。義弘はそうした経緯から三成には恩義を感じており、西軍参加も必ずしもいやいやではなかったはずです。
さて、伏見城を落とした石田三成は、8月9日に美濃垂井に到着、11日には大垣城に入ります。島津義弘らは大津から船で琵琶湖を渡り、三成の居城・佐和山城に2日間逗留、垂井を経て大垣城に入りました。対する東軍先鋒は8月4日までに、福島正則の居城・清須城に集結します。
8月23日、東軍は西軍の織田秀信が守る岐阜城を攻撃。これに対して西軍は、伊勢方面や大津、丹後などに兵力を展開していたため、即座に強力な援軍を送ることができません。この時、島津義弘らは長良川の墨俣〈すのまた〉の渡しを守り、石田三成、小西行長らは大垣城と墨俣の間にある呂久〈ろく〉川(揖斐川支流)の佐渡〈さわたり〉にいたとされます。
そして岐阜城が僅か1日で落ちると、東軍は長良川を押し渡って、攻めてきました。この事態に三成は、兵を一旦大垣城に後退させるよう命じますが、最前線の墨俣にいる島津勢は敵中に取り残されかねず、島津義弘の側近たちが三成の馬の口に取りすがるものの、それを振り切って三成は大垣城に戻ってしまったといいます(「新納忠元勲功記」)。
「われらを窮地に陥れて、自らは城に退くとは卑怯ではござらんか」。前線にいる島津豊久がそう怒ってもおかしくない場面で、三成のイメージを悪くする逸話の一つですが、さすがに三成も気まずかったのか、再び城を出て、単騎、島津勢を迎えに出向きました。
また、三成はその夜の首実検の際、島津隊の押川強兵衛の手柄を誉め、黄金一枚を与えたので、島津の他の兵が羨ましがったという話も伝わります。
9月14日正午頃、徳川家康が美濃赤坂に着陣。大垣城の兵に動揺が広がるのを見た石田三成は、家臣の嶋左近と、宇喜多家家臣の明石掃部に大垣城と赤坂の間を流れる杭瀬〈くいせ〉川を渡らせ、東軍を挑発。乗ってきた東軍を撃破して、味方の士気を鼓舞しました。関ケ原前哨戦の杭瀬川の戦いです。
その夜、石田三成ら西軍首脳は、大垣城から西の関ケ原に移動し、陣を布くことを決めました。そこへ、島津義弘の代理として島津豊久が訪れ、夜襲を進言したといわれます。江戸時代に編纂された『落穂集』に載る話で、概容は以下の通りです。
「島津中務豊久が来て、島津兵庫頭義弘からの急用と云う口上なので、三成は面会した。兵庫頭は、『今宵当城から関ケ原へ移動するとの事だが、良く考えるとそれは良くない策でしょう。むしろ当城に居る軍勢で今夜半頃に内府の旗本へ夜襲を掛けられるのが良いと存ずる。御同意戴けるなら兵庫頭義弘が先手を受け持ちましょう。また宇喜多殿か貴殿の御両人の内一人が関ケ原へ行かれ、彼地の諸軍勢を指揮して内府の先手を滅茶苦茶に切り崩す事を相談下さい』との旨で、その連絡役として私が参りましたと、豊久は語った」。
「三成が返答に困っていると嶋左近が出て来て、『兵庫頭殿の頼もしいお考えではありますが、昔から夜討ち夜軍等と言うものは小勢より大軍へ仕掛けて勝利を得ると云う例は聞いておりますが、大軍が小勢へ仕掛けた例は聞いた事がありません。明日は平地での一戦で味方の大勝利は疑いなく、この点、ご安心下さる様に兵庫頭殿へお伝え下さい。久しぶりに内府の敗走を見る事ができましょう』と言う」。
「豊久は左近の過言は不届き千万と思ったが顔には顕わさず、『貴殿は内府の敗走を見られたのは何時の事ですか』と尋ねた。左近は、『私は以前、故あって武田信玄の家来山県昌景の下に居た時、山県の手勢が内府を掛川の城近くの袋井縄手迄追った事があり、その時内府の敗走を見た』と言う。豊久は左近に、『それは俗に言う杓子定規と言うものです。その時の内府と今の内府を同じと思っては大きな間違いでしょう。明日の一戦で貴殿が見られた様に内府が敗走するならば喜ばしい事ですが、全くそうは思いません』と云い捨て、苦笑いして帰った」。
この逸話はこれまで多くの小説に用いられる一方、『落穂集』にしか出ていないものとして、史実としての信憑性は今、疑問視する人が増えています。石田三成と島津の不和が決定的になったこの瞬間がもしなかったとしたら、関ケ原での島津の行動はどうとらえるべきか、また次回、考えてみたいと思います(辰)
更新:11月23日 00:05