2016年12月08日 公開
2023年03月31日 更新
戦国最後の戦いともいうべき大坂の陣。真田信繁や毛利勝永ら「大坂五人衆」が、徳川方の大軍を相手に奮闘する姿は印象的です。その一方で、大野治長をはじめとする豊臣譜代衆は、五人衆の陰に隠れがちで、印象が薄いと感じられるかもしれません。そんな中、豊臣譜代衆の一人である木村長門守重成〈きむらながとのかみしげなり〉は、冬の陣、夏の陣を通じて活躍を見せています。彼の存在感は、人となりを伝える逸話の多さからも窺えるところです。
重成は、母・宮内卿局〈くないきょうのつぼね〉が秀頼の乳母であったため、幼い頃から秀頼の小姓として仕えました。家中では武勇に優れ、見目麗しい若武者として名高く、実際に姿を見かけた長宗我部盛親の家臣は、「背丈高く、面立ちに気品のある凛とした美丈夫」であったと伝えています。
重成の初陣は、慶長19年(1614)11月26日に行なわれた今福の戦いです。元黒田家の重臣で、「大坂五人衆」の一人である後藤又兵衛基次とともに、佐竹義宣隊3000に挑みました。
戦が迫り、敵情視察を行なった又兵衛は、敵の編成替えの様子から、「明朝の戦は必ずや、鴫野〈しぎの〉、今福が戦場になろう」と重成に伝えます。すると、「後藤殿、若年の私は戦場での経験がありませぬ。何とぞ、明日はよろしく御指図いただきたい」
辞を低くして、又兵衛に指揮を願い出ました。百戦錬磨の又兵衛に尊敬の念を抱く重成にとって、実戦の中で教えを乞うことができるまたとない機会であったのです。
豊臣譜代衆でありながら、重成の謙虚で潔い姿勢を好ましく思った又兵衛は、以来、重成に目をかけるようになりました。
今福の戦いにおける重成の活躍ぶりは史料からも、しっかりと窺えます。又兵衛の従者が残した記録によると、「木村重成はまだ軍法になれていなかったが、生まれついての勇者であるため、良く戦況を判断し、自らが槍を取って率先して進撃した。そのため続く自軍の兵士を奮い立たせることができ、佐竹勢数十人人が討ち取られた」(『長沢聞書』)とあります。この時、討ち取った人数は一説に50人程とも伝わり、又兵衛の協力があったとはいえ、初陣とは思えぬ活躍を見せたのでした。
重成の最期は、慶長20年(1615)5月6日の若江の戦いです。河内方面から攻め来たる徳川軍を破るべく、未明より河内国若江の堤上で備えました。早朝、木村隊は徳川方先鋒の藤堂高虎隊とぶつかり、敵将藤堂良勝を討ちとるなどの戦果を上げ、藤堂隊を退けました。
しばしの休息を取っていると、弓隊の組頭を務める飯島三郎右衛門が馳せ来たり、重成に帰城を勧めました。しかし、重成は力強く頭を振ります。「私はまだ、家康と秀忠の首を取っておらぬ」。二人を討つまでは大坂城に戻らない決意を固めて出撃した重成に、退くという選択肢はありませんでした。
その直後、赤く染まった一団が猛然と木村隊目掛け突っ込んできました。「赤備え」で知られた井伊直孝隊です。木村隊は後退しつつ敵の先手の将、川手良列を討ち取り、さらに庵原朝昌〈いはらともまさ〉らと激戦になります。井伊隊の突撃は激しく、「いよいよ最期の時よ…」と死を覚悟した重成は、落ち延びさせようとする側近を尻目に、単騎駆けで井伊隊に突っ込み、戦場に命を散らしました、享年23(諸説あり)。なお、井伊隊も無理押しをしたため、大きな損害を出していました。
かねてより討死することを覚悟していた重成は、兜の緒を固く結び端を切り落とし、その覚悟を示しました。また月代〈さかやき〉をきれいに剃り、兜に香を焚き込め、自らの死が見苦しいものにならないよう身を整えて、最期の戦いを迎えていたのです。合戦後の首実検で、重成の首を見た家康は、「物を良く知っている武士は雑兵の首と紛れないように、香をたしなむものだ。なんとも惜しい武士を亡くした」(『古老物語』)と、重成が戦に懸けた想いを汲み、その死を惜しんだといいます。
参考文献:曽根勇二『大坂の陣と豊臣秀頼』他
更新:11月22日 00:05