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毛利勝永の大坂入城~背中を押した妻

2016年10月30日 公開
2023年03月31日 更新

『歴史街道』編集部


 

惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず

「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」。勝永を評した言葉です。大坂夏の陣における奮戦では、戦場にいた敵方の黒田長政や加藤嘉明が、勝永の采配ぶりに舌を巻いたともいわれます。

毛利勝永は羽柴秀吉の家臣・森吉成〈もりよしなり〉の子で、父・吉成は秀吉の黄母衣衆を務めていました。勝永も森吉政〈もりよしまさ〉と名乗っていたようです。

父・吉成は九州征伐における武功で秀吉より豊前小倉6万石を拝領、そのうちの1万石を勝永に与えました(異説あり)。その翌年、秀吉から毛利家にあやかれと、姓を森から毛利に改めるよう命じられたといいます。

以後、父は毛利吉成もしくは勝信と称し、勝永も吉政から名を改めたともいわれますが、それがいつ頃のことかはよくわかりません。父・勝信は壱岐守、勝永は豊前守に任官しています。なお吉政の政は、正室・安姫の父である龍造寺政家より一字を賜ったものとされ、毛利父子が九州における秀吉の奉行的立場を担っていたことも窺わせます。

その後、毛利父子は朝鮮出兵にも出陣し、父子ともに活躍。この時、勝永はまだ20歳そこそこでしたが、慶長の役では蔚山倭城の加藤清正を救援し、明・朝鮮連合軍を撃退するのに一役買いました。若き逸材というべきでしょう。

やがて慶長5年(1600)の関ケ原。この時、父・勝信は領国にいたため、23歳の勝永が軍勢を率いて西軍に加わります。そして伏見城攻めで大いに武功を上げ、毛利輝元・宇喜多秀家より、3000石加増の恩賞を受けました。

さらに毛利秀元らともに伊勢を転戦後、大垣城の後詰めとして美濃南宮山に布陣。しかし、よく知られる通り、関ケ原本戦では東軍に通じた吉川広家がさえぎったため、毛利本隊は南宮山を動くことができぬまま、西軍敗北を迎えました。

ただ、南宮山の西軍諸隊が終始傍観していたかというと、必ずしもそうでもないようです。明治時代の郷土史家・神谷道一『関原合戦図志』によると、勝永は長宗我部盛親、安国寺恵瓊、長束正家らとともに、南宮山東の麓で、東軍の浅野幸長、池田輝政らと衝突したことになっています。

南宮山の戦いは小競り合いに終始したようですが、勝永が後年、ともに大坂の陣を戦う長宗我部盛親と共闘していたと思うと、感慨深いものがあります。

とはいえ西軍敗北により、毛利勝信・勝永父子は徳川家康によって所領没収となり、長宗我部家が改易となって、代わりに土佐に入った山内一豊〈やまうちかつとよ〉の許に預けられることになりました。山内一豊は秀吉家臣時代に、勝信の配下であったといいます。

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