重成は6日午前2時、兵4700を率いて、長宗我部盛親軍とともに大坂城の東8キロ先の八尾(大阪府八尾市)・若江(同東大阪市)方面へ出撃した。一方の徳川方は右先鋒が藤堂高虎5000、左先鋒は井伊直孝3200だった。未明に大坂方の大軍を見つけたとの斥候の知らせに、高虎は八尾にいた長宗我部軍を襲ったが散々に撃退された。一方の重成の左翼隊も藤堂軍に一撃を食らわせた。藤堂軍は両方の戦いで名のある将6人を含め300人余りを失った。『薩藩旧記』が「高虎家中で役に立つほどの人々は残らず戦死を遂げた」というほどの大打撃だった。
この時、直孝は当初の計画通り、道明寺方面に出撃しようとしていた。そこに高虎から救援要請を受けて攻撃目標を変え、他藩の兵も含め5600人を率いて若江に進撃し、木村隊と遭遇した。
重成は玉串川の堤上に鉄砲隊を配備し、伏兵も配していた。田の畔を進んだ井伊の左先鋒・河手良列が攻め掛かり、堤を占領したが、さらに突撃して重成の伏兵の攻撃によって戦死した。続いた右先鋒の庵原朝昌の1000も撃退される。先鋒隊の相次ぐ敗北に怒った直孝は、本隊を率いて重成の本隊に襲いかかった。
はじめは互角だった。しかし重成の軍勢は藤堂軍と戦った後の2度目の戦いだけに、疲労から攻撃が鈍り、新手の直孝本隊との差が徐々に現われはじめた。木村隊は負けが濃厚となって、家臣たちは重成に戦線離脱を促したが、これを拒否して最後まで戦場に留まった。
井伊家の先鋒をつとめ撃退された家老・朝昌は名誉回復とばかりに再び戦い、重成と遭遇した。そして死闘の末に朝昌に従った安藤長三郎が重成の首を取ったとされる。だがそれは事実ではないともいわれる。
乱戦の中で、重成は朝昌と遭遇し馬上から槍を突き出し合って一騎打ちとなった。朝昌が重成の白母衣を十文字槍でひっかけて引くと、重成は田圃にうつ伏せに落下した。そこを朝昌の若党4、5人が折り重なって押さえつけ、重成の首を取った。
ちょうどそこに安藤長三郎が来合わせて「まだ自分は何の手柄も立てていない。その首を頂けまいか」と言った。すると朝昌は「これが重成なら向こうの大将で、お前にも不足はなかろう。 某には全軍を指揮する役目がある。だから首をお前にやる。ただ某が討ち取った証拠に、相手の指物の金の捻り竹の印はもらっておく」と言い、首を長三郎に渡した。長三郎はそれを拾い首だと言って直孝に差し出した。これが重成の首が長三郎に渡った真相だという。
その日の夕刻、枚岡(東大阪市)の本営で、家康・秀忠の前にこの日討ち取った数百の首が並べられ、首実検が行われた。家康が最初に手に取ったのが重成の首だった。家康には血判の一件で忘れられない敵将であった。
すると頭髪のあたりから得もいわれぬ空炷きの薫香が漂ってきた。家康はその香りに今日を死と決した覚悟を感じ取った。家康は「若輩にして比類ない武士じゃ」と思わず嘆声を漏らした。
ここに井伊軍の名声が高まり、直孝を喜ばせた。その経過はどうあれ、その首をあげたことが井伊軍の誉れとなり、長三郎は重成を討った武将として称賛された。
『井伊年譜』によれば、長三郎は家康から重成がつけていた腰の物と黄金5枚、羽織を賜った。また直孝から今回の手柄に対し300石が与えられ、さらに200石が加増され、従来の200石から3.5倍の700石に昇進した。
彦根に帰った長三郎は菩提寺・宗安寺の安藤家の墓域にねんごろに重成を葬り、子孫にも祭祀を絶やさぬように遺言して8年後に死んだ。
ここで愛する夫を失った青柳に触れておきたい。彼女は重成とともに三途の川を渡りたかった。だが彼女は妊娠していた。淀殿・秀頼母子が自刃、これに重成の母宮内卿も殉じ、豊臣家が滅びたのは重成の死からわずか2日後であった。
青柳は何とか城を脱出すると、縁を頼って近江蒲生郡馬淵の里(滋賀県近江八幡市)の庄屋・馬淵家に身を寄せた。ここで男子を無事に出産すると、黒髪を切って尼になり、夫の冥福をひたすら祈る日々を送った。やがて夫の一周忌がやってくる。19歳の青柳に、この世への未練はなかった。彼女はその夜、持仏堂に入り、端然として自害した。息子は馬淵家で成長した。
※本記事は、楠戸義昭著『戦国武将「お墓」でわかる意外な真実』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。
更新:11月24日 00:05