「下の者の意見を聞く」
ということは、現在でもトップ・ミドルのリーダーがよく口にすることだ。しかし、意見を聞くといっても、
●誰から聞くか、という範囲の問題
●どういうふうに聞くか、
という態度の問題の2つがある。
「誰から聞くか」というのは、いわゆる「耳当たりのいい意見」ばかりいう者から意見を聞くのか、それとも「耳に痛いこと」をいう者の意見も聞くのか、これは大きな問題だ。そして、このこととも関わりを持つが、次の「どういうふうに聞くか」というのは、
●白紙で聞くのか
●聞き手にすでに結論が用意されているのか
ということにもからんでくる。
哲学では思考方法が2つある。演繹法と帰納法だ。演繹法は一般的命題や法則から特殊な命題や法則を引きだす方法である。これに対して、帰納法は個別的命題や法則から一般的命題や法則を引きだす考え方だ。
短絡した受けとめ方をすれば、演繹法は「多くの人々の意見を聞いて結論を出す」ということになるだろう。一方、帰納法は「自分の考えにこだわって、それを一般化していく」方法だといえる。
上杉鷹山の「下から意見を聞く方法」は、この演繹法にあたる。
一方、対照的なのは松平定信だ。松平定信は寛政の改革を推進した幕府の実力者だった。
定信は白河(福島県)藩主で「楽翁」と呼ばれた。徳川吉宗の子・田安宗武の息子にあたる。
かれは白河で名君といわれた。特に老人たちの意見を聞くので有名だった。この頃の老中田沼意次は積極政策をとって経済を盛りあげたが、本人が賄賂ばかり取っているので国民はこんな落首を詠んだ。
田や沼や汚れた御代を改めて
清く澄ませ白河の水
意味はいうまでもない。「田沼の汚職政治を追放して、白河藩主の松平定信さんよ、中央政治をあなたの優れた徳の政治によって浄化してほしい」ということである。
天明7年(1787)、幕府老中となった松平定信は国民世論の期待に応えて颯爽と登場した。したがって、定信には初めから、
「幕府政治に倫理を確立する」
という大命題が用意されていた。
かれもまた下の者の意見をよく聞いたといわれるが、その聞き方は帰納法であった。つまり、初めから結論が用意されていて、その結論の裏打ちをするような意見を好んで求めたといえる。この辺が上杉鷹山とまったく対照的であった。
下の者の意見の聞き方にこういう差が出たのは、二人の生い立ちや置かれた立場による。
上杉鷹山は、
●日向(宮崎県)高鍋藩主秋月家の出身である。秋月家は2万7千石の大名だった。
●それが縁あって米沢15万石の上杉家の養子藩主になった。
●家を継いだときは17歳である。若い。
●米沢の実態をまったく知らない。部下である藩士たちの顔もまったく知らない。藩士のほうも鷹山など知らない。
●上杉家は名門である。これに対して秋月家は九州では名門であったが、全国的にはそれほど知られた家ではない。
いってみれば、養子に入った上杉鷹山はハンデだらけであった。
これに対して松平定信は、
●8代将軍徳川吉宗の孫にあたる。
●白河藩松平家という名門の養子藩主に入った。
●白河藩主としての実績は天下に名だたるものであり、すでに「名君」の名を欲しいままにしていた。
●その名君ぶりが国民的期待となって、汚職政治家田沼意次を追放し、その後釜として老中首座(総理大臣)になった。
●江戸幕府で仕事をする同僚大名や部下たちも、松平定信の名声はよく知っていた。
こういうように、ハンデだらけの上杉鷹山に比べれば、松平定信はすでに寛政の改革を展開する以前に、その条件がほとんど揃っていたのである。こうなると、下の者の意見を聞くといっても、前に掲げた「誰から聞くか」「どういうふうに聞くか」ということは自ずから定まってくる。
上杉家についてあまり予備知識のない上杉鷹山は、必死になって米沢藩に関する一般的情報を集めなければならなかった。それに対して松平定信には、すでに白河藩における藩政改革の実績がある。
それに国民も、
「白河方式によって日本国政を浄化してほしい」
とはっきり告げている。
定信の場合は、その路線にすぐ乗れた。だから、かれの場合は、「国民の期待に添うような幕政を行なうための意見を聞く」ということになる。