2018年03月11日 公開
2022年06月15日 更新
米沢城址上杉神社 上杉鷹山公詠碑
文政5年3月11日(1822年4月2日)、米沢藩第9代藩主・上杉治憲が亡くなりました。号は鷹山。財政難に苦しむ米沢藩で藩政改革に成功し、中興の祖と仰がれる、江戸時代屈指の名君として知られます。
そもそも関ケ原合戦で敗れた上杉家は、それまでの会津120万石から米沢30万石に大減封となりますが、極力藩士を切り捨てない方針を採ったため、石高に比べて藩士の数が多く、そのため藩財政も窮乏することになりました。しかも3代藩主が急死したため本来御家取り潰しとなるところ、末期養子が認められる代わりに石高を半分召し上げとなり、15万石となります。その末期養子が綱憲で、忠臣蔵でおなじみの吉良上野介の実子です。
そして鷹山が藩主となる明和4年(1767)頃には、藩の借金は20万両(現在のおよそ200億円)にまで達しており、8代藩主の重定は藩経営が立ちゆかないため、幕府に領地を返上して領民を救済することまで考えていました。そんな中、9代藩主となった鷹山は重定の実子ではなく、日向高鍋藩主秋月種美の子で、養子として上杉家に入ります。もっとも母方の祖母は上杉4代藩主綱憲の娘なので、多少の血縁はありました。
鷹山は藩主に就任すると、先代からの家老たちと衝突することをいとわず、3つの改革を断行します。すなわち「財政再建」「産業振興」「心の改革」ともいえるものでした。注目すべきは心の改革で、これは藩士だけでなく領民に対しても、単に与えられるのを待つのではなく、「自分は藩のために何ができるか」という意識を育て、藩民全体で改革に向かう機運を興したのです。そのために鷹山は自ら先頭に立って質素倹約の生活を貫き、また領内を足繁くまわって領民と言葉を交わし、信頼関係を築いたといわれます。
こうした努力が実り、米沢藩は鷹山の次の藩主の代に、途方もない借金を完済することができました。鷹山はこう語っています。
「なせば成る。なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」
「受けつぎて国の司の身となれば忘るまじきは民の父母」
J.F.ケネディが、最も尊敬する日本人に鷹山を挙げたこともよく知られています。
更新:11月23日 00:05